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神社仏閣

神格化され神様となった菅原道真、安倍晴明、徳川家康と戦国武将たち

はじめに

神格化は、天体や自然、何らかの実在、個人、集団といった具体的な対象を神、もしくは神の域にあるものとして扱ったりみなしたりすること(引用: Wikipedia)であるが、日本では終戦まで天皇を神格化していたのは周知の事実である。

これは個人崇拝とは明らかに異なる思想である。日本では天皇以外にも神格化された歴史上の人物がいる。特に、平安時代に入ると、日本の神は仏や菩薩の姿を変えて民衆を救うために現れた(権現)とする考えが普及した。

それにより、権現号や菩薩号が付けられた神々が祀られ、それに伴って本地仏(神の正体とされる仏の姿)も定められた。神は仏であるという思想が一般的になり、本地仏や権現号など仏教的な要素が神々に定められて神仏習合が本格化した時代が長く続いた。

ところが江戸時代末期になって日本固有の思想や精神を明らかにする国学が盛んになると、神道の原点に回帰する考えが生まれ、やがて神道思想の主流となる。

そして、今日では行き過ぎた政策として批判が多い神仏分離令の公布に至る(1868年)。この悪令によって多くの神宮寺、鎮守社、権現号や菩薩号、神社内の仏像など奈良時代より続く、神仏の関係は外見上、姿を消してしまった。

神社から仏教の要素が、寺院から神道の要素が撤廃され、 神社と寺院はそれぞれ独立した立場になってしまった。しかし、幸いなことに民間レベルの信仰は神仏習合したまま現代に生き続けているという。

そうした民間レベルでの信仰が基盤となって、太平の世を願いつつも、過酷な戦国時代を生きて活躍した武将たちを神格化し、信仰の対象に選んだのは日本人のDNAであると言ってもよいかも知れない。


<目次>
はじめに
菅原道真を祀る天満宮
  • 大宰府天満宮【福岡県】
  • 北野天満宮【京都府】
安倍晴明と陰陽道
  • 晴明神社【京都府】
  • 安部晴明神社【大阪府】
  • 安倍文殊院【奈良県】
徳川家康神格化
  • 日光東照宮【栃木県】
  • 久能山東照宮【静岡県】
戦国武将の神格化
  • 戦国武将を祀る神社一覧
あとがき

菅原道真を祀る天満宮

天満宮【てんまんぐう】、天神社【てんじんしゃ】は、平安時代の学者である菅原道真を祭神とする神社で、政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになったのが起源とされる。

天満・天神は、天満大自在天神の略称である。 道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」や「受験の神様」として現在も信仰され、全国に約12,000社もの天満宮があるという。


大宰府天満宮【福岡県】

太宰府天満宮(福岡県太宰府市)は、菅原道真御墓所の上に社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社である。

全国に約12,000社あるとされる天満宮・天神社の総本宮である。「学問・至誠・厄除けの神様」として、広く世のご崇敬を集めている。年間に約1000万人の参拝者が訪れているという。

太宰府天満宮本殿、参拝客が多いので人物を入れずに撮影することは困難!

菅原道真は、承和12年(845年)に京都で生まれた。幼少期より学問の才能を発揮し、努力を重ねることで、一流の学者・政治家・文人として活躍した。

情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でもあった。

学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真は、昌泰2年(899年)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括した。

ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901年)に大宰権帥に左遷された。 つまり京都から大宰府に流された。 そのわずか2年後の 延喜3年(903年)2月25日、道真は住居の大宰府政庁の南館(現在の榎社)で波乱の生涯を閉じた。

太宰府天満宮楼門、とにかく参拝客が多いのに驚く!

門弟の味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなった。これは道真の御心によるものであろうと考え、その地に埋葬することにした。

延喜5年(905年)、墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919年)には勅命により立派な社殿が建立された。

その後、道真の無実が証明され、「天満大自在天神」という神号が贈られ、「天神さま」と崇められるようになった。

平安時代から現在に至るまで、その時代の人々と共にさまざまな天神信仰が息づいており、「学問・至誠・厄除けの神様」として広く崇敬を集めている。


北野天満宮【京都府】

北野天満宮(京都市)は、菅原道真公を御祭神として祀る全国に約1,2000社あるとされる天満宮・天神社の総本社である。

天神信仰発祥の地であり、親しみをこめて「北野の天神さん」と呼ばれている。

北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947年)に、当時の有力者が当所に神殿を建て、菅原道真をお祀りしたのが起源とされる。

その後、藤原氏による大規模な社殿の造営があり、永延元年(987年)には一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念された。この時から「北野天満天神」の神号が認められた。

寛弘元年(1004年)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室の御崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められた。

江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがお祀りされたり、道真のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られてきた。

このことが後に「学問の神さま」・「芸能の神さま」として広く知られるようになった所以である。現在、全国各地には天満宮・天神社が約1,2000社あると言われるが、その多くは北野天満宮から御霊分けをした神社であるという。

北野の地は、都(平安京)の守護をつかさどる四方(北東、北西、南東、南西)の北西、「」の地として大変重要な場所とされ、天地すべての神々「天神地祇」をお祀りした地主社が建てられた。

この神社に向けて帝が大極殿から祈りを捧げられるとき、北野の上空には北極星が輝き、日・月・星の運行が天皇・国家・国民の平和と安寧にかかわるとする「三辰信仰」と結びついて、北野は「天のエネルギーが満ちる聖地」として篤く信仰されるようになった。

そして道真公がお祀りされると霊験はさらに増し、北野天満宮は天空を司る天神」の社となって「天神信仰」発祥の地と呼ばれるようになった。

道真の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められ、現代でも盛んな信仰へと展開した。

また、「文道の大祖・風月の本主」と仰ぎ慕われ、学問の神さまとしての信仰は昔も今も変わることなく、人々の生活のなかで受け継がれている。

道真の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴である。

道真が生涯一貫した「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけているという。


安倍晴明と陰陽道

芥川龍之介の短編小説で有名な『羅生門』には、人間のエゴをテーマにした物語が描かれていた。

小説の舞台は、平安京の正門であった羅生門で、当時の京都は度重なる災害に襲われて洛中ですら荒れ果ていたという。

羅生門にはいつしか死体を捨てる習慣すらでき、日没になれば人々は気味悪がって羅生門には近寄りたがらなかったらしい。

桓武天皇による平安京遷都の頃から朝廷を中心に怨霊を鎮める怨霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなったとされる。

御霊信仰の時勢を背景に、陰陽道は道教または仏教(奈良・平安時代の密教)の呪法や、宿曜道と呼ばれる占星術から古神道に至るまで、さまざまな色彩を併せもつ多様性の性格を見せ始めたとされる。

平安時代中期以降には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である加茂忠行・保憲父子ならびにその弟子である安倍晴明【あべのせいめい】が現れ、朝廷中枢の信頼を得た。

そして賀茂保憲が、その嫡子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化した。

安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。

このため、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなったという。陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭【おんみょうのかみ】は常に安倍氏によって世襲されたらしい。


晴明神社【京都府】

晴明神社(京都市上京区晴明町806)の御祭神は、安倍晴明である。安部晴明の偉業を讃えた一条天皇の命により、晴明の屋敷跡に寛弘4年(1007年)に社殿が建立されたという。

安倍晴明は、平安時代中期の天文学者(陰陽師)であり、天文暦学の道を深く極め、式神【しきがみ】を思いのままに操る霊術を身に付けていたという。

天文陰陽博士として活躍し、天体や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当て、朝廷を始め多くの人々の信望を集めたと伝えられている。

安部晴明は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕え、数々の功績をたてた。

村上帝に仕えた際には、唐へ渡り、城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継ぎ、帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立した。

そして、一条帝に仕えていた寛弘2年(1005年)9月 26日、85歳で他界した。没後も我が国の陰陽道の祖として広く崇拝されている。


安部晴明神社【大阪府】

安部晴明神社(大阪市阿倍野区阿倍野元町)の御祭神は、安倍晴明である。

晴明の没後、一条天皇の命により、寛弘2年(1005年)に晴明が生まれた屋敷跡に社殿が建立されたと言われている。

晴明は安倍氏の一族として延喜21年(921年)3月辰の刻に、この地で生まれたと伝わる。


安倍文殊院【奈良県】

安倍文殊院(桜井市阿部645)は、大化元年(645年)に創建された日本最古の寺院の一つであり、華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高い。

御本尊は文殊菩薩である。木彫極彩色の騎獅文殊菩薩像(国宝)は、大仏師・快慶が1203年(建仁3年)に創作したものであり、高さが約7mもあり日本最大の文殊菩薩像である。

大和安倍の文殊は、天橋立切戸の文殊(京都府)、奥州亀岡の文殊(山形県)と共に日本三文殊としても知られており、第一霊場となっている。

安倍文殊院山門表参道
安倍文殊院本堂文殊堂

孝徳天皇の勅願によって大化改新の時(大化元年、645年)に、左大臣となった安倍倉梯麻呂【あべのくらはしまろ】が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺安倍寺)」である。

安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西約300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていた。鎌倉時代に現在の安倍文殊院の土地に移転後も、大和十五大寺の一つとして栄えていた。

しかし、永禄六年(1563年)松永弾正の兵火を受けて一山ほとんどが火災で焼失、約100年後の寛文5年(1665年)に現在の本堂文殊堂)が再建された。

本堂は入母屋造りの七間四面の建物で前に礼堂(能楽舞台)を従えている。

安倍文殊院・本堂前の枝垂桜
安倍文殊院金閣浮御堂

境内には奈良時代の遣唐使・安倍仲麻呂や、平安時代の陰陽師・安倍晴明もお祀りされている。

方位災難除けの金閣浮御堂や特別史跡の古墳、安倍晴明が天文観測をしたと伝わる展望台などもある。

安部寺は、古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられている。平成16年(2004年)、安倍晴明千回忌を迎えるに際し、二百年振りに晴明堂が再建された。

晴明堂の正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳があると信じられている玉である。

安倍文殊院晴明堂
安倍文殊院晴明堂如意宝珠

参拝者は自身の手で如意宝珠を撫で、魔除け方位災難除けを祈願する。


徳川家康神格化

東照宮【とうしょうぐう】とは、東照大権現と呼ばれ神格化された徳川家康を祀る神社である。

駿府城で死去した家康の柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府久能山東照社を創建した。

これに伴い、朝廷は神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位した。さらに、神格化された家康本人に対しても正一位を贈位している。

幕府は日光にも建設を進め、家康の死去から1周忌に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立した。

その後も各地の徳川・松平一門大名家、また3代将軍徳川家光による諸大名への造営の進言もあって譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた。

明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。

これらの東照宮のうち本宮である日光東照宮、御遺体を祀る久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」とする東照宮は多い。

幕府の正史によれば、規模・華麗さで劣る南禅寺塔頭金地院東照宮が遺言によって家康の遺髪及び持念佛を祀っているという。


日光東照宮【栃木県】

日光東照宮(栃木県日光市)は、元和3年(1617年)に徳川初代将軍、徳川家康を御祭神としてお祀りした神社である。

家康は、天文11年(1542年)12月26日に三河国岡崎城(愛知県岡崎市)で誕生し、幼少より苦労を重ねながら最終的に戦国乱世を平定し、幕藩体制を確立した。

そして、世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間にわたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をした。

家康は、元和2年4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を終え、直ちに久能山に神葬された。

そして遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の日光の地に移され、祀られた。

正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもとで厳粛に行われ、「東照社」として鎮座した。

その後正保2年(1645年)に「宮号」を朝廷より賜り、「東照宮」と呼ばれるようになった。尚、現在の主な社殿群は、三代将軍家光によって、寛永13年(1636年)に造替されたものである。


久能山東照宮【静岡県】

久能山東照宮(静岡県静岡市)は、元和2年(1616年)4月17日の徳川家康の死後、遺言により遺骸を久能山に埋葬し、久能城を廃止して東照社を創建した。

創建以来50年毎に式年大祭を斎行してきた。平成27年(2015年)には御鎮座四百年大祭を斎行し、現在に至る。

久能山(標高216m)は、推古天皇(592~628年)の頃に秦氏の末裔にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基や多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し、この要害の地に久能城を築いた。

しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。

家康は、大御所として駿府城に起居していた当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたといわれる。

死後、その遺骸は遺言によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には2代将軍・秀忠によって東照社(現久能山東照宮)の社殿が造営された。

家康の遺言は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山東照社(現日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。

日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。

同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現鼓楼)、五重塔(現存しない)、楼門が増築された。

造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離政策によって解体されたのは非常に残念なことだ。


戦国武将の神格化

神格化した戦国武将は、さすがに徳川時代には徳川家康だけだろうと思っていたが、黒田家の二人が神格化(光雲神社)されていたのは私にとっては新しい発見である。

戦国武将の多くは明治以降に政府に許可を得て神社で祀られるようになっている。

ある意味、時の権力者の匙加減で神にでもなれるということか? 否、誰もが神格化されるわけではないだろう。

本人の比類稀な実績があり、民衆の支持と信仰がなければ神格化はされないはずだ。戦国武将のなかで神格化された武将の数は限られていることからしてそのことは容易に判断できることだ。


戦国武将を祀る神社一覧

神社    創建年     祭神(戦国武将)    所在地   
建勲神社1869織田信長、信忠京都市
豊国神社1880(再建)豊臣秀吉京都市
豊国神社1885(再建)豊臣秀吉名古屋市
久能山東照宮 1616徳川家康 静岡市
日光東照宮1617徳川家康日光市
武田神社1919武田信玄甲府市
上杉神社1876上杉謙信、
上杉鷹山
米沢市
尾山神社1873前田利家、
芳春院
金沢市
柴田神社1873柴田勝家、
お市
福井市
真田神社1879歴代上田城主、
真田信繁(幸村)
上田市
光雲神社1776黒田孝高(如水)、長政 福岡市
井伊神社1869井伊直政、直孝 彦根市
明智神社1886明智光秀福井市
御霊神社1705宇賀御霊大神、
明智光秀
福知山市
精矛神社1918島津義弘姶良市
神格化された戦国武将たちを祀る神社一覧

あとがき

歴史上実在した人物が神格化され祀られた例は、本稿で取り上げたもの以外にもある。

例えば、神田明神(正式名称は神田神社)には、出雲神話で共に「国つくり」をした大国主命と少彦名命の二柱に加え、平将門が祭られている。少彦名命は、明治7年(1874年)に茨城県の大洗磯前神社から勧請されたというから平将門の方が早くから神田明神で祀られている。

皇族の高望王の三男、鎮守府将軍・平良将の子であり、平安時代の関東の豪族であった平将門は、関東の平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、当時の天皇・朱雀帝に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、朝敵となった実在の人物である。

しかし即位後わずか2か月たらずで討伐され(承平天慶の乱)、敗死した平将門の首が京から持ち去られて神田明神の近くに葬られた。その将門の首塚は関東地方の平氏武将の崇敬を受けた。

平将門は神田明神の御祭神になっていたが、明治7年(1874年)に明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、平将門神霊は境内摂社に遷された。

そして昭和59年(1984年)に本社祭神に復帰するまでの約110年もの間は神田明神の祭神でなかったというから驚きである。これも時の為政者の考え方次第という事例の一つである。


一方で、井戸神社(島根県大田市)のように、その土地の民衆の敬拝によって実在の人物を祀っている神社もある。御祭神は、第19代の石見代官であった井戸平左衛門である。

井戸平左衛門が代官に任命された翌年の享保17年(1732年)は、享保の大飢饉といわれる年で餓死者は全国でおよそ12,000人にも及んだとされている。

第19代の石見代官であった井戸平左衛門をお祀りする井戸神社拝殿(島根県太田市)

このような大飢饉の状況をみた井戸平左衛門は自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入するとともに幕府の許可を待たず代官所の米蔵を開いて飢人に米を与えたと伝えられている。

年貢米の免除や飢饉を乗り越えるための農民の助け合いの必要を説き、また薩摩芋の栽培を他の地先駆けて導入し、領内に餓死者を一人も出さなかったと伝えられている。

このように民衆に貢献した井戸平左衛門は、死後に井戸神社で祀られるようになったと伝えられている。


実在の人物が神格化される過程には、確かに時の権力者の匙加減とでもいうべき何らかの意図がないわけではない。

しかし、誰もが神格化されて神として祀られるようになるわけではないだろう。本人の比類稀な実績があり、民衆の支持と信仰がなければ神格化はされない。

英雄が割拠した戦国時代に生きた、あまたの戦国武将のなかで神格化された武将の数は限られている。数が限られるということ自体、神格化されることは容易なことではないと判断できる。

民衆の支持なくして、実在の人物の神格化は時の為政者の権力をもってしても力が及ばないのではないか。

織田信長が生前に自らを神として崇拝するように民に強制したという伝承があるが、それが事実であるならば、狂気の沙汰以外の何物でもないだろう。何故なら、神格化は自ら行うものではないからである。


【参考資料】

太宰府天満宮 【公式サイト】
北野天満宮 【公式サイト】
晴明神社【公式サイト】
安倍晴明神社【公式サイト】
安倍文殊院 【公式サイト】
日光東照宮【公式サイト】
久能山東照宮【公式サイト】
建勲神社【公式サイト】
豊国神社【京都市公式】
豊國神社【公式サイト】
武田神社【公式サイト】
上杉神社【公式サイト】
尾山神社【公式サイト】
柴田神社【公式サイト】
真田神社【公式サイト】
光雲神社【公式サイト】
井伊神社:滋賀県神社庁
明智神社 | 福井県観光情報ホームページ
御霊神社 | 福知山市観光スポット
精矛神社|鹿児島県姶良市