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【中世の瀬戸内海を制した海賊衆】村上水軍の栄華と衰退

村上水軍

村上水軍は、日本中世の瀬戸内海で活動した海賊衆である。

尚、水軍という名称は当時は存在せず、後の研究者によって名付けられたものである。主な活動は、輸送、航行船の破壊・略奪、大名間の信書の開封・破棄等を通じた大名間の同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに、芸予諸島の海峡を関所(札浦)に見立て通航料を徴収したりした。平時には漁業にも従事したという。(引用:ウィキペディア)

村上水軍の勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上氏因島村上氏来島村上氏の三家に分かれた(この三家を合わせて三島村上氏と呼ぶ)。

村上水軍の代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」などである。

今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住むという。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民(水上生活者)も村上水軍の末裔ではないかといわれている。(引用:ウィキペディア)


能島村上氏

『日本史』(ルイス・フロイス著)に総領家であった能島村上氏についての記載があるという。

「副管区長コエリョ師は室を出発して旅を続け、やがて我ら一行は、ある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や領地や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の人々は、彼によって破壊されることを恐れるあまり、毎年、貢物を献上していた。」(完訳フロイス日本史)

村上水軍をフロイスは通行する船から闇雲に金品を強奪する海賊として扱っているが、実態はいわゆる水先案内人であったと現在では考えられている。

この周辺は南北に大小様々な島が連なり干満で潮の流れが激変し、更に伊予側の来島海峡は現在でも最大で10ノット(約18km/h)の急潮と古来からの海の難所であったため、村上水軍が水先案内人として航行の手助けをし「警固料」と呼ぶ通行料をとり、彼らのルールに従わないものには武力を用いたとされる。
(引用:ウィキペディア)


因島村上氏

因島水軍城(広島県尾道市因島中庄町3228-2)

因島村上氏は、中世南北朝時代から室町・戦国時代にかけて、因島を拠点としていた。

当初は小勢力に過ぎなかった村上氏が次第に勢力を拡大して周辺海域の海運を掌握していく中で因島村上氏は本州側の主要航路である「安芸地乗り」を抑え、航路周辺に海城や見張り台を構築していき、その付近の岩礁には船の係留場所を設けた。

海岸部では平地を埋め立て兵站および生活拠点を形成した。そこには海産物の加工場や、造船および修理場もあったらしい。

また菩提寺として金蓮寺(因島で最初の寺院)を建立するなど、文化人としての側面も残されている。(引用:ウィキペディア)

因島水軍城(全国的にも珍しい城型資料館)

因島村上氏と他の三島村上氏との大きな違いは、早くから山陽側の大名と結びついていき、所領を持っていたことである。

日明貿易の頃には因島村上氏村上吉資)は備後守護大名の山名氏に取り入り遣明船の警固衆(護衛)を命じられている。

また、この島の西側は小早川水軍の縄張りであり小早川氏とも関係を深めていき、村上吉充の時代である天文24年(1555年)厳島の戦いの際には小早川水軍とともに毛利氏に加勢し、この勝利により北側の向島の所領を与えられた。

現在、因島水軍城に展示されている室町時代末期作の軽武装用鎧「白紫緋糸段威腹巻 附兜眉庇」は村上吉充小早川隆景より拝領したと伝わっている。

以降、毛利氏の下につき(毛利水軍)、防長経略・門司城の戦い・第一次木津川口の戦いなどの従軍した。
(引用:ウィキペディア)

因島水軍城城門
二の丸・武者人形/戦法会議模様

因島村上氏の縄張りの最大範囲は、東端が現在の福山市域になる走る島あたりで、田島・百島には城があった。南側は弓削島、岩城島や生名島にも支配権があったとされる。

豊臣秀吉が天下を統一して以降の事になる天正16年(1588年)海賊停止令により、海賊(水軍)勢力としての村上氏は解体された。(引用:ウィキペディア)

村上水軍の表紋「丸に上文字
隅櫓(パネル写真展示館)

来島村上氏

来島村上氏は、伊予国(現愛媛県)の河野氏に仕え瀬戸内海の警備にあたっていた。

当主の村上通康は、主家頭領の河野通直にとても気に入られ、河野家中でかなりの発言力を持っていた。

来島通総通康の四男として生まれるが、永禄10年(1567年)に父が病死したためにわずか7歳で家督を継いだ。

通総には兄がいたが、通総の生母が主君である河野通直の娘であったため家督を相続したと考えられている。

来島村上氏は、代々河野氏の影響下にあったが、通総の代においては、次第に河野氏から独立する姿勢を見せ始めた。

天正10年(1582年)に羽柴秀吉の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められて居城を失い、一時は秀吉の元に身を寄せた。

兄の得居通幸が鹿島城に拠って奮闘し戦い抜いたおかげで、羽柴方として留まった通総は秀吉と毛利氏との和睦後に旧領に復帰した。

秀吉は三島村上氏の中でも早くから味方についた通総を「来島、来島」と呼んで重用したため、姓を村上から来島に改めた。

天正13年(1585年)の秀吉による四国攻めでは小早川隆景の指揮の下に伊予で先鋒を務め、天正の陣で旧主家の河野氏を攻めた。

その戦功により伊予風早郡1万4000石を与えられて大名となった。三島村上氏の中で唯一の大名である。

他二家は大名には成れず毛利家臣として存続することになったという。その後、通総は大名として秀吉の命に従い、九州征伐や小田原征伐に参戦した。

豊臣秀吉が朝鮮出兵を決め、朝鮮水軍と戦う際には水軍を再編して何度も戦ったが、慶長2年(1597年)から再開された慶長の役で戦死した(享年37歳)。

この海戦では通総など先鋒の被害が大きかったものの、日本水軍は全羅道西岸への進出を果たした。

この通総の敗死に至る経緯について、小川雄は自身の著書の中で「大勢的には勝利を収めながら、これだけの被害を出したのは来島村上氏のみで、多くの海賊(水軍衆)が秀吉の国内統一の過程で大大名に吸収され自立性を失う代わりに、その資本力を背景に船舶の大型化・火力の増強など運用が大規模化していった中で、早くから秀吉に転属して小大名としての自立性を与えられていた事が、却って枷となり大規模運用への転換ができず海賊衆としての存在感を失っていった結果ではないか」と考察している。(引用:ウィキペディア)


【参考資料】

ウキペディア Wikipedia
因島水軍城 – 尾道市ホームページ
いんのしま観光なび(因島観光協会)
因島水軍城 | | いんのしま観光なび(因島観光協会)