はじめに
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。
これは、日本の古典文学を代表する『平家物語』の冒頭の文章である。日本人なら誰もが学校の教科書で一度は学んだ記憶があると思う。
『平家物語』は、平安時代の末期に栄華を極めた平家が源頼朝が率いる源氏の攻撃によって滅び、没落していく、武士階級の台頭を描いた軍記物語である。 壇ノ浦の戦いでの平家の滅亡や、義経と弁慶の活躍など、数多くのドラマチックなエピソードが含まれている。
源平合戦(治承・寿永の乱)で敗れた平家には、僻地へと落ちのびたとされる平家の落人伝説が全国各地に伝えられている。
落人とは、平家方が敗戦を繰り返した中で発生した平家方の難民であり、源氏方による平家残党の厳しい追捕から逃れた者が落人となって各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。
尚、落人の中には武士に限らず公卿や女性・子供なども含まれていた。そうした平家の落人が潜んだ地域は、平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などと呼ばれ、今日に至っている。
<目次> はじめに 平家物語のあらすじ 祖谷地方の平家落人伝説 切山地区の平家落人伝説 切山地区に残る主な平家落人遺跡 平家谷の平家落人伝説 越知地区の平家落人伝説 香美地区の平家落人伝説 紀伊半島に残る平家伝説 中国地方に残る平家伝説 九州地方に残る平家伝説 あとがき |
平家物語のあらすじ
平家物語の作者については、諸説があって、正確なことは不明のままである。平家物語は、平安時代に活躍した盲目の僧、琵琶法師によって広められたという。琵琶法師は一人ではなく、全国に存在していたらしく、そのため平家物語は全国に広まったと考えられている。
さて、平家物語のあらすじであるが、平家(平氏)の棟梁である平清盛の登場から始まる。平清盛は、保元の乱と平治の乱という二つの内乱を経て、武士として初の太政大臣にまで登りつめた当時の英雄である。このことにより平家は強大な権力を得て、全国の半分近くを治めるようになった。
しかし、傲慢な平家に世の中の不満が爆発し、その頃に関東で東国武士団をまとめて源氏の棟梁にらろうとしていた源頼朝が、平家追討の院宣を受けて挙兵した。源頼朝が率いる源氏軍が、富士川の戦いで平家に勝利したことから形勢が源氏有利となり、頼朝は鎌倉で東国武士団の名実ともに長となった。
そしていよいよ源頼朝の弟である源義経による平家追討の快進撃が始まった。一の谷の戦い、屋島の戦いで平家を追い詰め、壇ノ浦の戦いでついに決着がつき、平家は清盛の娘の徳子を残して滅亡したとされる。徳子は出家して建礼門院と称し、寂光院で隠棲した。
壇ノ浦の戦いで活躍し、平家滅亡に大きく貢献した源義経だったが、頼朝に恨まれて最終的に逃亡先の平泉で殺されてしまう。
平家物語はここで終結しているので、平清盛と源義経という二人の英雄がハッピーエンドでなく悲劇のヒーロー的存在として描いている。そしてそれが平家物語の冒頭で仏教的「無常観」を表した次の一節を回収している。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ
祖谷地方の平家落人伝説
平家の落人伝説は全国各地にある。 その全国各地に残る平家の落人伝説の中でも祖谷(徳島県三好市)は、日本有数の質と量を誇っている。
標高1000m級の山々に囲まれた秘境・祖谷は、平家の落人が隠れ住んだという伝説の地であり、平家ゆかりの品々や貴重な古文書を展示する「平家屋敷資料館」や「東祖谷歴史民族資料館」があり、平家の落人伝説が学べる。
徳島県の西部に位置する西祖谷山村と東祖谷村には、「祖谷平家伝説」としてもう1つの平家物語が語り伝えられている。
屋島の戦いに敗れた平国盛が率いる30名の平家一行が讃岐山脈を経て阿波へと入り、現在の徳島県東みよし町から三好市井川地区にかけての一帯に住んだが、追手に脅かされ祖谷に住んだと伝わる。
平国盛一行が幼い安徳天皇を守りながら祖谷の地に住み着いた際、山深い地で源氏の討手が迫ってきた時に敵の侵入を防いでいつでも切り落とせるようにと、かずらを束ねて橋を造った。それが現在にも残されている「かずら橋」であると言われている。
奥祖谷にも「二重かずら橋」と呼ばれる橋があり、約800年前に平家一族が剣山の道場に通う際にかけたとされている。長さが異なる男橋(全長43.4m)と女橋(21m)が並んで架かることから「夫婦橋」と呼ばれている。
阿佐集落には平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家の軍旗である「赤旗」が数百年前から現存するという。
また、平家の落人は、自分たちが祖谷で暮らしたことを後世に残しておこうと、国盛杉を植えたと伝えられている。この祖谷の地で平氏再興の望みをつないでいたのであろうと思うとロマンを感じる。
切山地区の平家落人伝説
切山地区(愛媛県四国中央市金生町山田井)は、源平合戦の舞台となった香川県の屋島からも近く、一度は徳島の祖谷地区に逃げた後、さらに源義経の追手から逃れてこの地に辿り着いたとされる。
元暦元年(1184年)6月、田邊太郎・平清国(清盛の外孫)、真鍋次郎・平清房(清盛の八男)、参鍋三郎・平清行、間部藤九郎・平清重、伊藤清左衛門国安(紀州熊野神社修験者)ら五士とその一族が、幼い安徳帝(平清盛を外戚に持つ幼帝)を守護し、祖谷から山道を歩き続けて切山に辿り着いた。
安徳帝は半年間切山で過ごした後、平知盛、平教経らの迎えをうけ下谷越えから田野々へ下り、讃岐詫間の須田ノ浦から船で長門国赤間へ向かったとの伝承がある。
切山地区には「真鍋家住宅」という愛媛県最古の民家があり、国指定の重要文化財になっている史跡もある。この古民家は平清房(平清盛の八男)の家系と伝えられていて、この地区には平家の落人に関する遺跡が数多く残されている。現在は真鍋家の子孫が代表となり、保存会を発足して遺跡の保存整備を手がけている。
切山地区に残る主な平家落人遺跡
安徳の窪 |
安徳天皇行在所の碑が建つ。 |
院の墓の碑 |
壇ノ浦での平家敗北を知り、再挙の夢が消え去った人々は、安徳帝の御衣と御念持仏を此処に埋め、仮の御陵としたとされる。 |
土釜神社 |
真鍋次郎平清房、田邊太郎平清国の子孫が祀られている。 |
土釜薬師 |
帝の安泰を祈って祀られた。五士が最初に辿り着いた所とされ、警備の要となっていた。 |
下谷八幡宮上の宮 |
安徳帝の安泰と、平家の武運長久を祈って祀られた。推古6年(598年)に宇佐八幡宮から分霊された、十四代仲哀天皇、十五代神功皇后が祀られている。八幡宮の側に、安徳帝を祀る祠・安徳宮が鎮座する。 |
下谷八幡宮下の宮 |
鳥居を潜り参道を上がって行くと、石段脇に宮石灯籠と刀石が並んでいる。この刀石は、安徳帝が神器の一つである宝剣を置いたとされる自然石である。鳥居側に熊野権現社が祀られている。 |
地神宮と五士の租、薬師尾と薬師如来、生き木地蔵尊など |
平家谷の平家落人伝説
平家谷(愛媛県八幡浜市保内町)には、壇ノ浦の戦いの後に瀬戸内海沿いに逃げ延びた平有盛系の一族がこの地でひっそりと暮らしたという伝説が残されている。
壇ノ浦の戦いで敗れた後、落ち延びた平家の一族8名が佐田岬半島の伊方越に辿り着き、宮内川上流の谷(後に平家谷と呼ばれるようになる)に隠れ住んだとの伝説がある。
平家谷では、開墾し、農作業をしながら暮らしていたが、3年ほど経ったある日、源氏の討手 の知るところとなった。鳥の群れを源氏の討手と誤解したとの説もあるが、平家の血を残すために男女2名だけを残して他の6名は自害することを選んだと伝承されている。
残った2名が平家谷集落の祖となったと伝えられ、平家谷には平家神社が祭られている。
現在の平家谷は、木々が深く茂る谷であり、奥にある朱塗りの平家神社を目指して歩く途中には、美しい川が何事もなかったかのごとく流れている。
越知地区の平家落人伝説
徳島県との県境に近い山岳地帯の高知県高岡郡越知(おち) 町 には、屋島の合戦の後、多くの平家一門が落ち延びてきたとの伝説がある。
横倉山には安徳天皇陵墓参考地がある。歴代皇族と同じ構造を有する立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常では説明が付かないものの、安徳天皇の墓であるという確証はないらしい。
しかしながら、このような険しい山中に築かれたことから、平家の落人の手によるものではないかと、地元では解釈されているようだ。
越知町周辺の地には「屋島から辿り着いた平家の人達が分散して隠棲した」との言い伝えが多く存在する。
横倉山の前を流れる川を仁淀川と呼ぶほか、 京都にゆかりを持つと思われる地名が多く存在する。例えば、北の集落は藤社と呼ばれ、これは当時京の北の守りであった藤社神社にちなむ。
周辺に点在する平家一門の隠れ里(平家の隠れ里)では明治に入るまで墓石がなく、石に名前を書いて並べ置く風習が残されていた。これは平安時代の伊勢平氏一門の風習と合致するらしい。
屋島(香川県)から東祖谷(徳島県)へと逃れた平家一門が最後に住み着いた場所が越知地区である可能性は高い。
ちなみに、高知県四万十市西土佐地区にあるJR予土線半家(はげ)駅は、その読み方から「珍名駅」として知られる存在であるが、この地に辿り着いた平家の落人が源氏方の追討を逃れるために「平」の横線を移動させて「半」にしたのが地名の由来と言われている。
香美地区の平家落人伝説
兵庫県美方郡香美町には、壇ノ浦の合戦で敗れた平教盛と平家長ら7人が漂着したという伝説が残されている。
香美町の門脇家と伊賀家がその末裔と伝えられ、かつては大晦日の夜に、狼煙を上げて、他の地域の落人たちと無事を確かめ合っていたとも言われている。
また、平内神社には的を源氏の目に見立てて、101本の矢で射貫くという百手神事も行われているそうである。
この地域には平家に基づく地名伝説がいくつか残されている。上計地域には平家落人の漂着を伝えて、平家平という地名が残り、畑地区・土生地区にも平家平や平家谷と呼ばれる地名伝承が伝わっている。
紀伊半島に残る平家伝説
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川には平維盛が屋島から逃亡し、紀伊国色川郷に隠れ住んだという伝説が残されている。
奈良県吉野郡野迫川村平(たいら)は、平維盛がその生涯を終えた場所と伝えられ、平維盛塚の付近は「平維盛歴史の里」として整備されている。
一方、奈良県吉野郡十津川村五百瀬の山林中にも平維盛の墓と伝えられる祠があるという。さらには、三重県津市芸濃町河内にも「平維盛の墓」があるという。
平維盛がたびたび登場するので、平維盛には何人もの影武者がいたのであろうかとつい思ってしまう。それとも平維盛は平清盛の嫡男・平重盛の子であり、平氏の嫡流であるから平家の一族郎党を従えた落武者は平維盛であると皆が思いたかったのであろうか?
全国各地に残る平家の落人伝説では、安徳天皇と共に平維盛が双璧をなしてその名前が残されていることは非常に興味深いことだ。
和歌山県日高郡みなべ町堺には平家塚があり、年に一度地元の常福寺が平家祭りを行っている。
当地に流れ着いた平家の落ち武者が幟をあげたために源氏の追討に遭ってしまい、絶滅してしまった。そのためなのか、当地では鯉のぼりをあげる習慣がないと伝わる。
中国地方に残る平家伝説
岡山県久米郡久米南町全間(またま)には、平維盛が落ち延びて、その後裔が持安氏と称して幕藩体制で全間を治めたという伝説が残されている。
全間から連続する大垪和にかけて山上の隠れ里のようになっており、平氏、貴族、関ヶ原で敗れた石田氏などさまざまな落人伝説が伝わる。
一方、広島県福山市沼隈町横倉地区には、平清盛の弟である平教盛の長男、平通盛が落ち延びたとされる。平通盛一行は、山南川を奥へと分け入り、横倉に隠れ住んだという伝承があり、横倉には平家をしのぶ痕跡が多数あって平家谷と呼ばれている。
また横倉にある赤旗神社には平家の軍旗である「赤旗」を祀っているという。
山口県下関市大字高畑にも平家落人伝説が残されている。この地は、壇ノ浦の戦いがあった早鞆(はやとも)の瀬戸から直線距離で約2kmしか離れていない谷間の集落である。
あまりに近すぎたために源氏の追手に気づかれなかったと言い伝えられている。平家塚と呼ばれる場所には五輪塔などが存在する。
九州地方に残る平家伝説
福岡県久留米市田主丸町 にある平神社の中には「平知盛の墓」が存在する。平神社には神社の成り立ちの話の看板も立つ。
壇ノ浦の戦いで海に身を投げたはずの平知盛の亡骸は上がっていない。そのため安徳天皇の乳母達と一緒に久留米の瀬の下(水天宮総本山辺り)に落ち延び、平氏の味方がいる田主丸まで逃げてきたとされる。
しかし、源氏に寝返った人々に殺され、この場所に墓が建てられたと伝えられている。この時、逃げた平氏の嫁子孫は山を越え、八女市に移り「服部」姓を名乗っているとされる。
大分県玖珠郡九重町の松本地区と周囲の山々、中でも平家山の周辺には平家の落人伝説が残っている。
壇ノ浦の戦いに破れ、九州各地の山奥に逃げこんだと言われ、ここ豊後の玖珠盆地一帯にも、平家一門の武将と女子供300人余りが逃げ落ちと伝わる。
源氏の追討の更なる危険を避ける為に3つの山奥に分かれて生き延び、周囲一帯に住み着いたとも言われている。また、家の再興を期して財宝を隠したと言われる山もある。
平家の名前に因んで、付近の一帯の山は「平家山」「宝山」「大祖山」などと名付けられたようだ。
熊本県八代市泉地区にある五家荘には、平清経の一行が落ち延びたとされる。
五家荘は、紅葉の名所としても有名な所ではあるが、山深くに位置しており、車で行くにしても道は険しくかなり時間を要する。
車社会でなかった時代には、源氏の追討から避けるためには最適の地であったのだろう。この地には平家の落人の伝承と言われる「久連子古代踊り」があり、国選択無形民俗文化財として後世に残されている。
あとがき
平家の隠れ里は、古くから平家の落人伝説が残る場所として知られいる。平家が源氏に敗れた後、各地に散り散りになり、隠れ住んだとされる地域がいくつか伝説と共に残っている。
平家の隠れ里は、たいてい山間部にあり、現在においても交通の便が決して良いとはいえない場所に位置している。当時はかなりの秘境になっていたのであろう。だからこそ、源氏側の追っ手から逃れることができたのだと思うが、同時にこんな山奥に逃れなければならなかったほど源氏側の追及が厳しかったということだと思う。源氏も平家の再興を恐れていたのかも知れない。
平家の隠れ里と呼ばれる地域では、平家の落人が農業や手工業を営み、地元の人々と共存しながら生活していたという伝説が伝えられていることが多い。地元の人々は平家の落人に対しては寛容であったのかも知れない。
現在では、平家の隠れ里とされる地域は、観光地としても人気があり、歴史浪漫旅を楽しむためのハイキングコースや案内板が整備されている所もある。これらの地域を訪れる際には、歴史的な背景を学びながら、自然の美しさも堪能したいものである。
【参考資料】
『平家伝承地総覧』(全国平家会編全国平家会2005) |
平家屋敷民俗資料館(西岡家住宅、徳島県三好市西祖谷山村西岡) |