はじめに
石見銀山【いわみぎんざん】(島根県太田市)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎え、日本最大の銀山であった。当時、世界の銀の算出量の約3分の1を日本が占めたと推定され、石見銀山が産出する銀がその大部分を占めたという。
明治時代には、枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱されたらしいが、現在は閉山されている。岩見銀山は、2007年に世界遺産に登録され、現在に至る。
<目次> はじめに 世界遺産に登録された理由 龍源寺間歩 佐毘売山神社 清水谷精錬所跡 大森の町並み 温泉津温泉 あとがき |
世界遺産に登録された理由
「石見銀山遺跡とその文化的景観」がユネスコから評価を得て、2007年に世界遺産に登録されたが、その理由には次の3つがあるという。
- 16世紀から17世紀初頭の石見銀山が世界経済に与えた影響
- 銀生産の考古学的証拠が良好な状態で保存されている
- 銀山と鉱山集落から輸送路、港など鉱山活動の総体を留める
つまりは、登録された世界遺産には石見銀山の遺跡(間歩や精錬所跡など)以外にも佐毘売山神社【さひめやまじんじゃ】、大森の町並みや温泉津温泉【ゆのつおんせん】 なども含まれているということである。
龍源寺間歩
銀山採掘のために掘られた坑道は、「間歩」【まぶ】と呼ばれ、石見銀山ではその間歩や水抜き坑がおよそ700余りが確認されているという。
主な間歩として、釜屋間歩、龍源寺間歩、大久保間歩、永久坑道などが知られている。これらの間歩のうち、常時、一般公開されて内部を見学できるのは龍源寺間歩のみである。
龍源寺間歩は、代官所の直営だった大坑道の一つで、坑道の全長は約600m余りで、大久保間歩の次に長いという。
手作業で掘られた間歩の壁面には、ノミで掘った跡や、通風や通路に使用された竪坑【たてこう】(地表から垂直または垂直に近い傾斜で掘り下げた坑道)が残っており、当時の坑内の様子を知ることができる。
通り抜けコースとなっている坑道は、途中から新しく開削した栃細谷新坑【とちばたけしんこう】を通って出口に向かう(全長約273m)。
佐毘売山神社
佐毘売山神社【さひめやまじんじゃ】は、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産で、龍源寺間歩の近くの巨岩の上に鎮座している。
佐毘売山神社の御祭神は、石見銀山の守り神である金山彦神【カナヤマヒコノカミ】である。そのため神社の別名を「山神社」【さんじんじゃ】といい、鉱夫や村人からは「山神さん」【さんじんさん】と呼ばれ、親しまれてきたという。
清水谷精錬所跡
清水谷精錬所跡【しみずだにせいれんしょあと】は、19世紀後半にここで再開発しようとした銀生産が失敗に帰した遺跡でもあるという。
明治19年(1886年)に、大阪の藤田組が石見銀山の再開発に着手し、多額の投資を行ったという。既存の坑道を拡張して大量の鉱石を掘り出すためにダイナマイトを使用するなど、近代的な採掘設備と製錬方法を導入し、明治28年(1895年)に清水谷に新しい製錬所が開設されましたという。しかしながら、350年余りにわたって採掘されてきた石見銀山の銀鉱床はすでに枯渇しており、鉱石の質が予想よりも低いものであることが分かり、最終的に清水谷製錬所はわずか一年半の操業の後、閉鎖されたという。
大森の町並み
江戸時代の武家屋敷や代官所跡、石見銀山で栄えた豪商・熊谷家住宅など、歴史的な建造物や文化財が当時の面影が大森の町並みには残されている。
大森の町並みは、武家と町家が混在しているところに特徴があるという。武家屋敷は、通りに面して門や塀があり、主屋との間に庭を設けているのに対し、町家は通りに面して主屋を建てているという。
大国主命【オオクニヌシノミコト】を祀る城上神社【きがみじんじゃ】の拝殿の格天井には、龍の絵「鳴き龍」描かれている。この絵の下で手を叩くと、リンリンという鳴き声のような音がするという話は残念ながら帰宅後に知った。試してみるべきであったと後悔している。
栄泉寺の山門は、水天門または竜宮門と呼ばれており、この地方では珍しい形式の山門である。
第19世、仏乗禅師が住職の頃(1854年)に自身の好みで建てた山門が、日光の嘉陽門に良く似ているところから徳川天領の代官屋代増之助から、ひどく叱られ取り壊しの厳命が下りたらしい。しかし、仏乗禅師は本山の永平寺を尋ねて留守だったため、栄泉寺では豪華な山門に荒むしろをかけ、板で囲いをして通行止めをするという騒ぎになったという。こうしてこの山門は日の目を見ないまま何年かが経った。やがて銀山にも幕末の激動が伝わり、うやむやのうちに幕府が崩壊する。明治新政府が生まれたため、最終的に山門は取り壊しの災難を免れたということである。
井戸神社は、第19代の石見代官であった井戸平左衛門をお祀りしている神社である。井戸平左衛門が代官に任命された翌年の享保十七年(1732)は、享保の大飢饉といわれる年で餓死者は全国でおよそ12,000人にも及んだとされている。
このような大飢饉の状況をみた井戸平左衛門は自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入するとともに幕府の許可を待たず代官所の米蔵を開いて飢人に米を与えたと伝えられている。年貢米の免除や飢饉を乗り越えるための農民の助け合いの必要を説き、また薩摩芋の栽培を他の地先駆けて導入し、領内に餓死者を一人も出さなかったと伝えられている。
西性寺は、1465年の創建と伝えられる寺院で、元々は天台宗の寺院であったが、1524年に浄土真宗へ改宗して西性寺と称するようになったとされる。
現在の本堂は1845年に再建されたもので、「左官の神様」と称された松浦栄吉が大正時代中期に還暦を迎えた頃、経蔵の壁に描いた鏝絵「鳳凰」は、県下随一の作品と言われている。
観世音寺は、大森の町を貫く通り沿いの岩盤の上に建立されている。創建は不詳で、大火で類焼した後再建されたという。江戸時代は石見銀山の大盛を祈願する寺で、本堂、山門、鐘楼が残る。
石段の上り口には一畑薬師が置かれ、鉱山で目を傷めた人の祈願所だったらしい。
旧大森区裁判所は、大森の町並みのほぼ中間に位置する所に建つ、白い洋風建築の建物である。現在は町並み交流センターとして活用されているという
町並み交流センターの横には大森町住民憲章が掲示されている。
温泉津温泉
温泉津温泉【ゆのつおんせん】(島根県大田市温泉津町)は、旧石見国にある温泉郷であり、重要伝統的建造物群保存地区(国指定)でもある。港町として栄えた当地は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部として世界遺産にも登録されている所である。
石見銀山の一角にあり、往時は積み出し港として賑わった温泉津港から山側に伸びる温泉街は、長い歴史を感じさせるレトロな感じの日本旅館が両側に立ち並ぶ静かな街並みであった。
温泉津温泉街には江戸・明治・大正・昭和それぞれの時代の建物が立ち並び、今も人々の暮らしが息づく。この温泉街は、時間を閉じ込めた博物館のようだと形容されている。町並み保存地区に指定された温泉街は全国で唯一であるという。
温泉津温泉の湯は、湧出時は透明だが湯船では淡茶褐色を呈すといわれ、古くからその効能の高さが知られているという。豊富に湧き出す湯は、銀山の鉱夫や運び手を癒やしてきたことだろう。
あとがき
石見銀山には以前から行きたいとは思っていたが、山陰は神戸からは近くて遠いイメージがあり、初めての島根旅行で実現した。
駐車場のある石見銀山公園から公開坑道の龍源寺間歩までは約2.3kmの距離があるが、一般車両は立ち入ることはできない。
電動のレンタサイクルでの移動は徒歩より随分とましではあったが、途中で妻の電動サイクルのバッテリーが切れたようだ。それにも気付かずに清水谷製錬所までの長い坂道を自転車で登ってきたのだからすごい体力というしかない。そのためか妻の「バッテリー」も著しく消耗したのは不慮のアクシデントでもあった。
6月初旬だというのに真夏のような天候で、熱中症になるのではないかと思ってしまうほどであった。真夏のような暑さのために大森の町並みの散策を満喫できなかったのは残念である。
温泉津温泉は、温泉街の風情と歴史を感じ、現在では秘湯っぽい雰囲気があって私は気に入った。いつの日か再訪したいと思う。