はじめに
『古事記』【こじき】は、一般的に日本最古の史書とされている。古事記は3巻(上巻・中巻・下巻)からなり、上巻【かみつまき】には、世界がまだ混沌としていた時代(天地開闢【てんちかいびゃく】)から神代7代の神々が現れ、日本列島の形成と国土の整備を経て、やがて天から神の子が地上に降り立つ(天孫降臨【てんそんこうりん】)に至り、その神の孫であるイワレヒコ(神武天皇)の誕生までを記す、壮大な日本神話が描かれている。
『古事記』は、神代から上古までを記した史書として、『日本書紀』と共に『記紀』と総称されることも多い。一方で、『古事記』は出雲神話を重視しているとの指摘もある。私は、この出雲神話が好みである。その中でも私の好きな神話のいくつかを、「天地創造」から「天孫降臨」まで順を追って、やさしく、でもしっかりとたどってみたいと思う。
| <目次> はじめに 天地開闢と造化三神の登場 特別な天津神と神代七代 オノゴロ島と国産みの神話 神産みの物語 黄泉の国への旅 禊から生まれた神々と三貴子の誕生 アマテラスとスサノオ 天の岩戸と五穀の誕生 ヤマタノオロチ退治 大国主神と因幡の白兎 根の国への訪問 大国主神の国つくり 国譲り神話 天孫降臨―ニニギの使命 あとがき |
天地開闢と造化三神の登場
『古事記』の物語は、まだ天地が分かれていない混沌【こんとん】の状態から始まる。やがて天と地が分かれていく。これが「天地開闢」【てんちかいびゃく】、つまり世界のはじまりである。
天地が初めて分かれ、世界が形を成し始めたとき—— その神秘の瞬間、高天原【たかまがはら】に最初に姿を現したのが、「造化三神」【ぞうかさんしん】と呼ばれる三柱の神々であった。
- 天之御中主神【アメノミナカヌシノカミ】
- 宇宙の中心に最初に現れた、まさに“天の中心を司る神”
- すべての始まりを見守る存在
- 高御産巣日神【タカミムスビノカミ】
- 創造と生成の力を象徴する神
- 万物を生み出すエネルギーの源とも言われている
- 神産巣日神【カミムスビノカミ】
- 生命の誕生や成長を司る神
- 後の神々の誕生にも深く関わっていく
この三柱の神は、姿を現したものの、地上に降り立つことなく、すぐに隠れてしまったとされる「独神」【ひとりがみ】である。その存在は、まさに神話世界の根幹をなす“はじまりの神々”である。
特別な天津神と神代七代
―世界がまだ若かったころ、神々は静かに現れはじめた ―
天地が初めて分かれたばかりの頃、地上はまだ固まりきらず、水に浮かぶ油のようにゆらゆらと漂っていました。そんな混沌とした世界に、葦【あし】の芽がすっと伸びるように、新たな神々が静かに姿を現す。
この時代に生まれたのが、次の二柱の神々である:
- 宇摩志阿斯訶備比古遲神【ウマシアシカビヒコヂノカミ】
- 天之常立神【アメノトコタチノカミ】
この二柱に、先に現れた「造化三神」を加えた五柱の神々は、特別な存在として「別天津神」【ことあまつかみ】と呼ばれる。彼らはすべて姿形を持たない“独神”【ひとりがみ】であり、ただ静かにこの世界の礎を築いたとされている。
「別天津神」五柱の神々
- 天之御中主神
- 高御産巣日神
- 神産巣日神
- 宇摩志阿斯訶備比古遲神
- 天之常立神
ちなみに、「天津神」【あまつかみ】とは、高天原【たかまがはら】に住まう神々のことを指す。愛媛県八幡浜市にある大元神社では、これらの神々のうち五柱が御祭神として祀られている。

御祭神は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天常立神、国常立神である。
神代七代の神々―世界を形づくる存在
別天津神の誕生の後、さらに神々の系譜は続く。次に現れたのは、神代七代【かみよななよ】と呼ばれる七組の神々たちである。最初の数代は“独神”として、後の代からは男女の対となって現れるようになる。
以下が、その誕生順に並べた十二柱の神々である:
- 国之常立神【クニノトコタチノカミ】
- 豊雲野神【トヨクモノノカミ】
- 宇比地迩神【ウヒジニノカミ】
- 須比智迩神【スヒジニノカミ】(宇比地迩神の妹)
- 角杙神【ツノグヒノカミ】
- 活杙神【イクグヒノカミ】(角杙神の妹)
- 意富斗能地神【オオトノジノカミ】
- 大斗乃辨神【オオトノベノカミ】(意富斗能地神の妹)
- 淤母陀流神【オモダルノカミ】
- 阿夜訶志古泥神【アヤカシコネノカミ】(淤母陀流神の妹)
- 伊邪那岐神【イザナギノカミ】
- 伊邪那美神【イザナミノカミ】(伊邪那岐神の妹)
このうち、最後に誕生したイナナギとイナナミの二柱は、後に「国産み」と「神産み」を担う、極めて重要な神々である。彼らの物語は、日本列島の誕生と、数多の神々の創造へとつながっていく。
オノゴロ島と国産みの神話
天の命と神々の使命
天地が開かれたばかりの頃、まだ地上はふわふわと漂うクラゲのような状態であった。そんな未完成の国土を見て、天津神たちは話し合い、イザナギとイザナミに「この混沌の世界を整えてきなさい」と命じた。そして二柱の神に神聖な矛「天の沼矛」【あめのぬぼこ】授けた。
オノゴロ島の誕生
イザナギとイザナミは、天の浮橋【あまのうきはし】に立ち、天の沼矛を海に差し入れて、ぐるぐるとかき混ぜた。矛を引き上げると、先端から滴り落ちた塩が積もり、やがて一つの島が生また。これが、神話における最初の島――オノゴロ島である。
イザナギとイザナミはこの島に降り立ち、天御柱【あめのみはしら】を立て、広々とした神殿を築いた。ここから、ふたりの「国産み」の旅が始まる。
最初の試みと不吉な誕生
神殿を築いた後、イザナギはイザナミに尋ねる。「あなたの身体はどうなっているのか?」
イザナミは、「私の体はほぼ完成していますが、足りないところがあります」と答える。イザナギは「私の体には余ったところがある。それをあなたの足りないところに合わせて、国を産もう」と提案し、イザナミも同意する。
ふたりは天御柱のまわりを回って出会い、言葉を交わして交わった。しかし、先に声をかけたのがイザナミだったため、最初に生まれた子――水蛭子【ひるこ】は不完全な存在として、葦の船に乗せて流されてしまう。次に生まれた淡島【あわしま】も、子として認められなかった。
このことを天津神に報告すると、「女が先に声をかけたのが原因だ」と告げられ、ふたりは儀式をやり直すことになる。
大八島国の誕生
再び地上に戻ったイザナギとイザナミは、今度はイザナギが先に声をかけることで儀式をやり直す。すると、ついに国産みが成功! 最初に生まれたのは、
- 淡道之穂之狭別島【あわじのほのさわめしま】(淡路島)
続いて、
- 伊予之二名島【いよのふたなしま】(四国)
- この島には一つの体に四つの顔があり、それぞれが以下の国を表している
- 伊予国:愛比売【えひめ】
- 讃岐国:飯依比古【いいよりひこ】
- 阿波国:大宜都比売【おおげつひめ】
- 土佐国:建依別【たけよりわけ】
さらに次々と島々が誕生する:
- 隠伎之三子島【おきのさんしとう】(隠岐諸島)
- 筑紫島【つくししま】(九州)
- 伊伎島【いきのしま】(壱岐)
- 津島【つしま】(対馬)
- 佐渡島【さどがしま】
- 大倭豊秋津島【おおやまととよあきづしま】(本州)
この最初に生まれた八つの島々は「大八島」【おおやしま】と呼ばれ、ここから日本は「大八島国」と称されるようになった。
大八島の外に生まれた島々
国産みの旅はまだ終わりません。大八島を産んだ後も、イザナギとイザナミはさらに六つの島を産み出す:
- 吉備児島【きびこじま】
- 小豆島【あずきしま】
- 大島【おおしま】
- 女島【ひめじま】
- 知訶島【ちかのしま】
- 両児島【ふたごのしま】
こうして、大小あわせて14の島々が、ふたりの神によってこの世に誕生した。
イザナギとイザナミの「国産み」神話は、日本列島の起源を語る壮大な物語。そこには、自然の神秘や命の誕生、そして男女の役割に対する古代人の深い洞察が込められている。
神産みの物語
イザナミが産んだ神々と悲劇のはじまり―命を生み出す神々の営みと、別れの涙 ―
「国産み」を終えたイザナギとイザナミは、次に「神々」を産み出すことにした。ここから始まるのが「神産み」【かみうみ】の物語。自然界のあらゆる存在を象徴する神々が次々と誕生し、やがて悲劇が訪れる。
自然を司る神々の誕生
まず生まれたのは、以下の神々たち。大地、石、風、海、港など、自然の要素を象徴する存在の神々である。
- 大事忍男神【オオコトオシオノカミ】
- 石土毘古神【イワツチビコノカミ】
- 石巣比売神【イワスヒメノカミ】
- 大戸日別神【オオトヒワケノカミ】
- 天之吹男神【アメノフキオノカミ】
- 大屋毘古神【オオヤビコノカミ】
- 風木津別之忍男神【カザモツワケノオシオノカミ】
- 大綿津見神【オオワタツミノカミ】(海の神)
- 速秋津日子神【ハヤアキツヒコノカミ】(港の神)
- 速秋津比売神【ハヤアキツヒメノカミ】(その妹)
この速秋津日子神と速秋津比売神の間からも、さらに多くの神々が誕生した。水の流れや湿地、川の分流などを象徴する神々である。
水と大地の神々の系譜
- 沫那芸神【アワナギノカミ】
- 沫那美神【アワナミノカミ】
- 頬那芸神【ツラナギノカミ】
- 頬那美神【ツラナミノカミ】
- 天之水分神【アメノミクマリノカミ】
- 国之水分神【ク二ノミクマリノカミ】
- 天之久比箸母智神【アメノクヒザモチノカミ】
- 国之久比箸母智神【クノクヒザモチノカミ】
さらに、風・木・山・野を司る神々も生まれた:
- 志那都比古神【シナツヒコノカミ】(風の神)
- 久久能智神【ククノチノカミ】(木の神)
- 大山津見神【オオヤマヅミノカミ】(山の神)
- 鹿屋野比売神【カヤノヒメノカミ】(野の神) ※別名:野椎神【ノヅチノカミ】
この大山津見神と野椎神の間からも、霧や闇、戸口などを象徴する神々が生まれた。
山と霧、戸の神々
- 天之狭土神【アメノサヅチノカミ】
- 国之狭土神【クニノサヅチノカミ】
- 天之狭霧神【アメノサギリノカミ】
- 国之狭霧神【クニノサギリノカミ】
- 天之闇戸神【アメノクラトノカミ】
- 国之闇戸神【クニノクラトノカミ】
- 大戸惑子神【オオトマトヒコノカミ】
- 大戸惑女神【オオトマトヒメノカミ】
火の神と、イザナミの死
そして、運命を変える神が生まれる。 その神は、火之迦具土神【ヒノカグツチノカミ】――火の神である。
イザナミはこの神を産んだことで、女陰に大やけどを負い、命を落としてしまう。 その苦しみの中で、彼女の体からはさらに神々が生まれた。
- 嘔吐から:金山毘古神【カナヤマヒコノカミ】、金山毘売神【カナヤマヒメノカミ】
- 排泄物から:波邇夜須毘古神【ハニヤスヒコノカミ】、波邇夜須毘売神【ハニヤスヒメノカミ】
- 尿から:弥都波能売神【ミズハノメノカミ】、和久産巣日神【ワクムスビノカミ】
イザナギは、愛する妻の死に深く悲しみ、彼女の枕元や足元で泣き崩れる。その涙からも神が生まれた。
- 泣沢女神【ナキサワメノカミ】※香具山のふもとの木の下に祀られる神である。
イザナミの遺体は、出雲国と伯耆国の境にある比婆山【ひばのやま】に葬られ、彼女の魂は黄泉の国【よみのくに】へと旅立った。
火の神の最期と血から生まれた神々
イザナギは怒りと悲しみに満ち、火之迦具土神を十拳剣【とつかのつるぎ】で斬り捨てた。その血が剣や鞘に飛び散り、そこからも神々が誕生した。
- 石拆神【イワサクノカミ】
- 根拆神【ネサクノカミ】
- 石筒之男神【イワツツノオノカミ】
- 甕速日神【ミカハヤヒノカミ】
- 樋速日神【ヒハヤヒノカミ】
- 建御雷之男神【タケミカヅチノオノカミ】
- 闇淤加美神【クラオカミノカミ】
- 闇御津羽神【クラミツハノカミ】
さらに、火之迦具土神の体そのものからも山の神々が生まれた:
- 頭から:正鹿山津見神【マサカヤマツミノカミ】
- 胸から:淤縢山津見神【オドヤマツミノカミ】
- 腹から:奥山津見神【オクヤマツミノカミ】
- 陰部から:闇山津見神【クラヤマツミノカミ】
- 左手から:志芸山津見神【シギヤマツミノカミ】
- 右手から:羽山津見神【ハヤマツミノカミ】
- 左足から:原山津見神【ハラヤマツミノカミ】
- 右足から:戸山津見神【トヤマツミノカミ】
イザナギとイザナミの「神産み」は、ただの創造ではなく、命を生むことの喜びと痛み、そして別れを描いた物語でもある。自然界のあらゆる存在が神として語られるこの神話は、古代の人々が自然とどう向き合っていたかを教えてくれる。
黄泉の国への旅
イザナギとイザナミ、永遠の別れの物語― 愛と死、そして命の循環が始まるとき―
国を産み、神々を産み、そして火の神を産んだことで命を落としたイザナミ。 深い悲しみに沈んだイザナギは、愛する妻を取り戻すため、死者の国「黄泉の国」【よみのくに】へと旅立つ。 ここから始まるのは、日本神話における“生と死の境界”を描いた、美しくも壮絶な物語である。
黄泉の国の扉の向こうへ
亡きイザナミを追って黄泉の国へたどり着いたイザナギは、黄泉の国の入り口にある塞がれた戸の前で、イザナミに呼びかけた。
「愛しい我が妻よ。私たちが共につくった国は、まだ完成していない。どうか一緒に戻ってきてくれ。」
すると、戸の向こうからイザナミの声が返ってきた。
「もっと早く来てくれればよかったのに…。私はもう黄泉の国の食べ物を口にしてしまいました。だから、現世には戻れません。でも、せっかく来てくれたのだから、黄泉の神に相談してみます。その間、決して私の姿を覗かないでくださいね。」
そう言い残して、イザナミは御殿の奥へと姿を消した。
禁を破ったイザナギと、変わり果てた姿
しかし、どれだけ待ってもイザナミは戻って来ない。 不安に駆られたイザナギは、髪に挿していた櫛の歯を一本折り、火を灯して御殿の中を覗いてしまう。
その光に照らされたイザナミの姿は、かつての美しさを失い、蛆がたかり、八柱の雷神がその身体に宿る、恐ろしい姿となっていた。その変わり果てた姿を見たイザナギは、恐怖に駆られて逃げ出す。
黄泉の追跡劇と神々の誕生
イザナミは怒りに震え、「私に恥をかかせましたね」と叫び、黄泉醜女【よもつしこめ】という恐ろしい女神たちを差し向けた。
イザナギは、髪に巻いていた黒いカズラを投げると、それは山ブドウに変わり、醜女たちはそれを食べて足を止める。さらに、櫛の歯を投げると、そこからタケノコが生え、再び彼女たちの足を止めることに成功する。
しかし、追手は止まらない。今度は、イザナミの体に宿っていた雷神たちが1500の黄泉の軍勢を率いて追ってきた。イザナギは剣を振るいながら逃げ、ついに黄泉比良坂【よもつひらさか】にたどり着いた。
そこで、桃の実を三つ投げると、追ってきた軍勢は退散した。イザナギはこの桃に感謝を込めて、「人々が困ったときには助けてあげてほしい」と願い、意富加牟豆美命【おおかむずみのみこと】という神名を授けた。
永遠の別れと命の循環
最後に、イザナミ自身が現れる。イザナギは千引きの岩【ちびきのいわ】を引き寄せ、黄泉比良坂の入り口を塞いだ。 その岩を挟んで、ふたりは最後の言葉を交わす。
イザナミ:「愛しい私のイザナギよ。こんな仕打ちをするのなら、あなたの国の人々を毎日1000人ずつ死なせてやります。」
イザナギ:「愛しき私のイザナミよ。ならば私は毎日1500の産屋を建ててやろう。」
こうして、人は死に、また生まれるという命の循環が始まったと伝えられている。
このとき以降、イザナミは黄泉津大神【よもつおおかみ】と呼ばれるようになり、死の世界の神となった。
また、黄泉の坂を塞いだ岩は、道反之大神【ちがえしのおおかみ】、またの名を黄泉戸大神【よみどのおおかみ】と呼ばれ、死と生の境界を守る神として祀られるようになった。
神話が語る“死”のかたち
この黄泉の国の物語は、ただの神話ではなく、死別の悲しみ、禁忌、そして命の循環という深いテーマを内包している。
イザナギとイザナミの別れは、やがて「禊(みそぎ)」と「再生」へとつながり、次なる神々の誕生へと続いていく。
禊から生まれた神々と三貴子の誕生
清めの水から生まれた、光と闇と海の神
黄泉の国から逃れ、死の穢れを背負ったイザナギ。 愛するイザナミとの別れを経て、彼は心身を清めるために禊【】みそぎ】を行うことを決意する。 その場所に選ばれたのは、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原【あわぎはら】であった。 ここでの禊は、ただの清めではなく、新たな神々の誕生の場となった。
身を清める前に生まれた神々
イザナギは、禊を始める前に身につけていた装身具や衣を脱ぎ捨てた。すると、それぞれの持ち物から12柱の神々が誕生した。
- 杖から:衝立船戸神【ツキタツフナトノカミ】
- 帯から:道之長乳歯神【ミチノナガチハノカミ】
- 袋から:時量師神【トキハカシノカミ】
- 衣から:和豆良比能宇斯能神【ワヅラヒノウシノカミ】
- 袴から:道俣神【チマタノカミ】
- 冠から:飽咋之宇斯能神【アキグヒノウシノカミ】
- 左の腕輪から:奥疎神【オキザカルノカミ】、奥津那芸左毘古神【オキツナギサビコノカミ】、奥津甲斐弁羅神【オキツカヒベラノカミ】
- 右の腕輪から:辺疎神【ヘザカルノカミ】、辺津那芸左毘古神【ヘツナギサビコノカミ】、辺津甲斐弁羅神【ヘツカヒベラノカミ】
禊の流れから生まれた神々
イザナギは川に入りながらこう言った。「上の瀬は流れが速く、下の瀬は流れが遅い。中ほどがちょうどよい。」そして中流に身を沈め、禊を行った。 この清めの行為から、14柱の神々が誕生した。
まず、穢れから生まれた神々:
- 八十禍津日神【ヤソマガツヒノカミ】
- 大禍津日神【オオマガツヒノカミ】
その穢れを正すために生まれた神々:
- 神直毘神【カムナオビノカミ】
- 大直毘神【オオナオビノカミ】
さらに、海の神々:
- 伊豆能売神【イヅノメノカミ】
- 底津綿津身神【ソコツワタツミノカミ】
- 底筒之男命【ソコツツノオノミコト】
- 中津綿津身神【ナカツワタツミノカミ】
- 中筒之男命【ナカツツノオノミコト】
- 上津綿津身神【ウワツワタツミノカミ】
- 上筒之男命【ウワツツノオノミコト】
三貴子の誕生:光・闇・海の支配者
そして、禊の最後にイザナギが顔を洗ったとき、日本神話の中心を担う三柱の神々が誕生する。
- 天照大御神【アマテラスオオミカミ】
- 左目を洗ったときに誕生
- 太陽の神
- 光と高天原を司る存在
- 月読命【ツキヨミノミコト】
- 右目を洗ったときに誕生
- 月の神
- 夜の世界を統べる存在
- 建速須佐之男命【タケハヤスサノオノミコト】
- 鼻を洗ったときに誕生
- 海原を治める神・嵐の神
- 荒ぶる力を持つ存在
イザナギはこの三柱を「三貴子」【さんきし】と呼び、特別な使命を与えた。
三貴子に託された世界
イザナギは、三貴子の神にこう命じた:
- アマテラスには、首飾りの玉(御倉板挙之神)を授け、「あなたは高天原を治めなさい。」
- ツキヨミには、「あなたは夜の食国【よるのおすくに】を治めなさい。」
- スサノオには、「あなたは海原【うなばら】を治めなさい。」
こうして、光・闇・海という世界の根幹を担う三貴子が、それぞれの領域を治めることになった。
禊がもたらした再生の神話
黄泉の国からの帰還と禊を経て、イザナギは死の穢れを祓い、新たな神々と未来を生み出した。 とくに三貴子の誕生は、日本神話の中でも最も重要な転換点となる。 ここから、天照大御神を中心とした高天原の物語が動き出していく。
アマテラスとスサノオ
― 神々の絆と、乱れゆく高天原 ―
三貴子として生まれたアマテラス、ツキヨミ、スサノオの三柱の神は、それぞれが太陽、月、海を司る神として、父イザナギから役目を託された。
しかし、三柱の中でただ一人、スサノオだけがその使命を果たそうとせず、やがて高天原に波乱を巻き起こしていく。
泣き叫ぶ神、スサノオ
スサノオは、父神から「海原を治めよ」と命じられながらも、泣き叫ぶばかりで何もしなかった。 その嘆きは激しく、山は枯れ、川や海の水は干上がり、邪神や悪霊が世にあふれ出すほどに。
イザナギは問いただす。「なぜ国を治めず、泣いてばかりいるのか?」と。
スサノオは答える。「亡き母のいる根の国【ねのくに】へ行きたいのです。」
その言葉にイザナギは怒り、スサノオを追放してしまう。
高天原での誓約【うけい】
根の国へ向かう前に、スサノオは姉であるアマテラスに別れを告げようと高天原を訪れる。 しかし、その登場はあまりに激しく、山や川が震えるほどであった。 アマテラスは「高天原を奪いに来たのでは」と疑い、武装して彼を迎え撃つ準備をする。
スサノオは潔白を主張し、「誓約」によってその心の清らかさを証明しようと提案する。
神々の誕生:剣と玉から生まれた命
アマテラスとスサノオは、天安河【あまのやすかわ】を挟んで誓約を行った。
まず、アマテラスがスサノオの十拳剣【とつかのつるぎ】を受け取り、三つに折って水で清め、噛み砕いて息を吹きかけると、三柱の女神が生まれた:
- 多紀理毘売命【タキリヒメノミコト】
- 市寸嶋比売命【イチキシマヒメノミコト】
- 多岐都比売命【タキツヒメノミコト】
次に、スサノオがアマテラスの勾玉の玉緒【たまのお】を受け取り、水で清めて噛み砕き、息を吹きかけると、五柱の男神が生まれた:
- 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命【マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト】
- 天之菩卑能命【アメノホヒノミコト】
- 天津日子根命【アマツヒコネノミコト】
- 活津日子根命【イクツヒコネノミコト】
- 熊野久須毘命【クマノクスビノミコト】
アマテラスは、「五柱の男神は私の玉から生まれたので私の子、三柱の女神はあなたの剣から生まれたのであなたの子」と告げた。
スサノオは「私の子は優しい女神たち。つまり、私の心が清らかである証だ」と誇らしげに語った。
乱れる高天原
しかし、誓約に勝ったと自負したスサノオは、次第に傍若無人なふるまいを始めた。例えば:
- アマテラスが大切にしていた田んぼの畦を壊し、水路を埋める
- 収穫祭の神殿に排泄物をまき散らす
それでもアマテラスは、「あれは酔って吐いたもの」「土地を広げようとしたのだろう」と、弟をかばい続けた。
しかし、スサノオの行動は、やがて取り返しのつかない事態を引き起こすことになる――。
神々の誓いと、すれ違う心
この物語は、兄妹の絆と誤解、そして神々の誕生を描いた重要なエピソードである。 誓約という神聖な儀式から生まれた神々は、のちに日本神話の中核を担っていく。
天の岩戸と五穀の誕生
闇に閉ざされた世界と、再び訪れた光の物語 ―
高天原を照らす太陽の女神・アマテラス。 その光が失われたとき、世界は深い闇に包まれた。 すべての始まりは、弟・スサノオの暴走からであった。
暴走するスサノオと、アマテラスの隠遁
アマテラスは、神聖な機織り小屋で神々に捧げる衣を織らせていた。 ところがある日、スサノオはその屋根を破り、皮を剥いだ馬を放り込むという暴挙に出た。驚いた機織り女神は、誤って機織り機の部品で陰部を突き、命を落としてしまった。
この出来事に恐れを抱いたアマテラスは、天の岩戸【あまのいわと】に身を隠してしまう。 すると、高天原も地上も闇に包まれ、朝の来ない永遠の夜が訪れた。 邪神たちの声が蝿のように満ち、災いが世界にあふれ出した。
神々の知恵と祭りの作戦
困り果てた八百万の神々は、天安河【あまのやすかわ】に集まり、知恵の神・思金神【オモイカネノカミ】に策を練らせた。 その答えは――「祭りを開くこと」であった。

神々は協力して準備を進める:
- 長鳴鳥【ながなきどり】を集めて鳴かせ、夜明けを告げる
- 鏡を作るために、天津麻羅【アマツマラ】と伊斯許理度売命【イシコリドメノミコト】が鍛冶を行う
- 玉祖命【タマノオヤノミコト】が勾玉を連ねた玉飾りを作る
- 天児屋命【アメノコヤネノミコト】と布刀玉命【フトダマノミコト】が占いを行い、神具を整える
そして、天宇受売命【アメノウズメノミコト】が登場。 彼女は神がかりし、胸をはだけ、陰部まであらわにして踊り出した。 その姿に、八百万の神々は大笑い。 その笑い声が、岩戸の中のアマテラスの耳にも届く。

岩戸が開かれ、光が戻る
不思議に思ったアマテラスは、岩戸を少しだけ開けて尋ねる。「私が隠れているのに、なぜ皆は笑っているのですか?」
アメノウズメは答える。「あなたよりも尊い神が現れたので、皆喜んでいるのです。」
その言葉に気を取られたアマテラスがさらに覗き込むと、天児屋命と布刀玉命が鏡を差し出し、 その姿を見たアマテラスは驚き、思わず身を乗り出す。
その瞬間、天手力男神【アメノタヂカラオノカミ】が岩戸の陰から現れ、アマテラスを引き出した! すぐに布刀玉命が注連縄【しめなわ】を岩戸の入口に張り、「これより中には戻れません」と宣言。
こうして、太陽の女神・アマテラスが再び姿を現し、世界に光が戻ったという。
スサノオの追放と五穀の誕生
神々は話し合い、スサノオに罰を与えることを決定。 スサノオは髭を剃られ、手足の爪を抜かれて、天上から追放されてしまった。
地上に降りたスサノオは、食べ物を求めて大気津比売神【オオゲツヒメノカミ】のもとを訪れた。 彼女は、鼻・口・尻から食物を取り出して、調理して差し出した。 しかし、それを見たスサノオは「穢れている」と怒り、彼女を殺してしまった。
ところが―― 大気津比売神の亡骸からは、命の恵みが芽吹いた。
- 蚕(頭から)
- 稲(目から)
- 粟(耳から)
- 小豆(鼻から)
- 麦(陰部から)
- 大豆(尻から)
これらを神産巣日御祖命【カミムスビミオヤノカミ】が受け取り、五穀の種として人々に授けた。
闇を越えて、命は巡る
スサノオの乱暴なふるまいに怒ったアマテラスは、天岩戸に隠れてしまい、世界は闇に包まれる。神々は協力してアマテラスを岩戸から引き出すための作戦を立て、アメノウズメの踊りや、鏡・勾玉などの神宝を使って見事に成功する!
このエピソードは、日本の祭りや神楽の起源とも言われている。
また、アマテラスの隠遁と復活、そしてスサノオの追放と五穀の誕生―― この物語は、光と闇、秩序と混沌、そして命の循環を象徴している。
神々の世界で起きた出来事は、今も私たちの暮らしの中に息づいているのかもしれない。
ヤマタノオロチ退治
― スサノオの勇気と愛、そして出雲に生まれた新たな物語 ―
高天原を追放されたスサノオは、地上の出雲へと降り立つ。 その旅の途中、彼はある川辺で、運命を変える出会いを果たす。
出雲の地で出会った涙の家族
スサノオがたどり着いたのは、出雲の肥河【ひのかわ】の上流、鳥髪【とりかみ】という地。 川を流れる箸を見つけたスサノオは、「この先に人がいる」と気づき、川をさかのぼって行った。
すると、そこには老夫婦と一人の少女が、涙を流していた。 スサノオが「あなたたちは誰ですか?」と尋ねると、老人はこう答えた。
「私は足名椎【アシナヅチ】、妻は手名椎【テナヅチ】、娘は櫛名田比売【クシナダヒメ】と申します。私たちは山の神・大山津見神【オオヤマヅミノカミ】の子です。」
八俣遠呂智の恐怖
スサノオが「なぜ泣いているのか」と尋ねると、足名椎は事情を語った。
「私たちには八人の娘がいましたが、毎年一人ずつ、高志【こし】から来る大蛇・八俣遠呂智【ヤマタノオロチ】に食べられてしまいました。今夜、最後の娘が狙われているのです…」
その大蛇の姿は恐ろしく、
- 頭が八つ、尾も八つ
- 体にはヒノキや杉、日陰葛【ひかげかずら】が生い茂り
- 八つの谷と峰にまたがるほど巨大
- 目は赤いホオズキのように光り、腹は血に染まっているという…
英雄の誓いと策略
スサノオは言う。「その娘を私にくだされば、必ずヤマタノオロチを退治してみせましょう。」
身分を問う老夫婦に、スサノオは自らが天照大御神の弟であることを明かす。 驚いた二人は、娘を託すことを決意。 スサノオはクシナダヒメを櫛の姿に変え、自らの髪に挿して守る。
そして、老夫婦にこう命じた:
- 八塩折【やしおり】の濃い酒を仕込むこと
- 八つの門と桟敷【さじき】を備えた垣根を作ること
- 各門に酒桶を置き、酒を満たして待つこと
ヤマタノオロチ、現る!
やがて、地響きを立ててヤマタノオロチが現れる。 八つの頭はそれぞれの酒桶に突っ込み、酒を飲み干して酔い潰れ、眠ってしまった。
その隙を突いて、スサノオは十拳剣を抜き、大蛇を切り刻んだ。 肥河の水は、流れ出た血で真っ赤に染まったという。
最後の尾を斬ったとき、剣の刃が欠けた。審に思って尾を裂いてみると、そこから現れたのは神秘的な太刀であった。 スサノオはこの剣をアマテラスに献上した。 その剣が後に「草薙の剣」【くさなぎのつるぎ】と呼ばれ、三種の神器の一つとなった。
新たな門出と最古の和歌
ヤマタノオロチを退治したスサノオは、クシナダヒメとともに暮らすための地を探し、 やがて出雲の須賀【すが】の地にたどり着く。
「私はこの地に来て、心が清々しい(すがすがしい)」
そう言って宮殿を築いたことから、この地は「須賀」と呼ばれるようになったという。 ここに建てられた宮殿は、日本初之宮【にほんはつのみや】とされ、現在の須我神社に伝わっている。

そしてこの地で、スサノオが詠んだとされるのが、日本最古の和歌である。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を
意味: 湧き立つ八重の雲が、出雲の地に八重の垣をめぐらせる。 愛しい妻を守るために、その八重垣を築くのだ―― なんと美しい八重垣よ。

神話に宿る愛と勇気
ヤマタノオロチ退治は、ただの怪物退治ではない。 それは、愛する者を守るために立ち上がる勇気と、 新たな命と文化のはじまりを告げる物語でもある。
そして、スサノオの詠んだ和歌は、 日本人の心に今も息づく「言葉の力」の原点とも言えるでしょう。
大国主神と因幡の白兎
優しさと知恵が導いた運命の出会い
出雲の神話に欠かせない存在、大国主神【オオクニヌシノカミ】。 その誕生と活躍は、数々の試練と奇跡に彩られていると言ってよい。 彼の若き日の物語と、あの有名な「因幡の白兎」の神話から、まずは始めよう。
大国主神の誕生と多くの呼び名
大国主神は、天之冬衣神【アメノフユキヌ】と、刺国若比売【サシクニワカヒメ】の間に生まれた。 彼は、スサノオから数えて七代目の子孫にあたる。
その神格の広さを表すように、大国主神にはいくつもの別名がある:
- 大穴牟遅神【オオナムチノカミ】
- 葦原色許男神【アシハラシコオノカミ】
- 八千矛神【ヤチホコノカミ】
- 宇都志国玉神【ウツシクニタマノカミ】
それぞれの名が、彼の多面的な性格や役割を物語っている。
因幡の白兎と優しき神
ある日、オオナムチ(=大国主神)は、八十神【ヤソガミ】と呼ばれる多くの兄弟神たちとともに、因幡の八上比売【ヤガミヒメ】に求婚するため旅に出た。 しかし、兄弟たちはオオナムチを荷物持ちの従者のように扱っていた。
旅の途中、気多【けた】の地で、皮を剥がれたウサギが倒れているのを見つけた。 兄弟神たちはウサギに嘘の治療法を教え、海水を浴びて風に当たるように言った。 その結果、ウサギの傷は悪化し、痛みに苦しんで泣いていた。

遅れてやってきたオオナムチは、ウサギに優しく声をかける。「どうしてそんなに泣いているの?」
ウサギは、自分が沖ノ島から渡るために和邇【わに】(=サメ)を騙し、怒りを買って皮を剥がされたこと、そして兄弟神に騙されて傷を悪化させたことを語った。

オオナムチは、こう教えた。「すぐに川の水で体を洗い、蒲黄(がまの花粉)を敷いてその上で休みなさい。きっと治るはずです。」
ウサギがその通りにすると、元の美しい姿に戻ることができた。 このウサギは「兎神」【うさぎがみ】と呼ばれ、感謝の気持ちを込めて、「ヤガミヒメは、あなたを選ぶでしょう。」と予言した。

予言の成就と兄弟神の怒り
兎神の言葉どおり、ヤガミヒメは兄弟神たちの求婚を断り、オオナムチとの結婚を選んだ。 これに怒った八十神たちは、オオナムチを殺そうと画策した。
まずは「赤い猪が山にいる」と偽り、焼けた大石を転がして彼を押し潰し、命を奪った。 母神のサシクニワカヒメは悲しみに暮れ、高天原に助けを求めた。
その願いに応えた神産巣日之命【カミムスビノミコト】は、 キサ貝比売【キサガイヒメ】と蛤貝比売【ウムギヒメ】を遣わし、 オオナムチを蘇生させた。
再びの裏切りと逃避行のはじまり
しかし兄弟神たちは諦めなかった。 今度は大木を切り倒し、楔【くさび】を打って開いた隙間に彼を閉じ込め、楔を抜いて圧死させた。
再び母神が彼を探し出し、大木を割って助け出し、命を取り戻させた。
母は言います。「ここにいては、また命を狙われる。紀伊国の大屋毘古神【オオヤビコノカミ】のもとへ行きなさい。」
オオナムチは、その助言に従い、大屋毘古神のもとへ向かった。 しかし、兄弟神たちはそこまで追ってきて、弓に矢をつがえ、引き渡せと迫った。
大屋毘古神は静かにこう言った。「スサノオのいる根の堅州国【ねのかたすくに】へ行きなさい。 きっと、あなたに力を授けてくれるでしょう。」
こうして、オオナムチ(=大国主神)の新たな冒険と成長の旅が始まる。
優しさと試練が育てた神
「因幡の白兎」の物語は、優しさが報われること、そして嘘や傲慢が破滅を招くことを教えてくれる。 そして、大国主神の数々の試練は、彼が後に国造りの神として成長していくための、大切な通過儀礼だったのかもしれない。
根の国への訪問
― 愛と試練を越えて、国造りの神へ ―
数々の困難を乗り越え、優しさと知恵で人々の心をつかんできた大国主神。 彼がさらなる試練に挑み、真の国造りの神へと成長していく「根の国への訪問」の物語をお届けしよう。
スサノオのもとへ
母の導きと大屋毘古神の助言に従い、大国主神(この時はまだ大穴牟遅神/オオナムチ)は、冥界にあたる根の堅州国に住む須佐之男命(スサノオ)を訪ねる。
そこで出迎えたのが、スサノオの娘、須勢理毘売(スセリビメ)。 ふたりは出会った瞬間に一目惚れし、そのまま結婚してしまう。
試練の数々とスセリビメの助け
スサノオは、娘婿となった大国主神に次々と命がけの試練を与える。
- 蛇の部屋に閉じ込める
- ムカデと蜂の部屋に入れさせる
- 鏑矢【かぶらや】を放った野原に火を放ち、取りに行かせる
しかしそのたびに、スセリビメが魔除けの布(比礼)を授けたり、 ネズミの助けを借りたりして、彼はすべての試練を乗り越えた。
逃走とスサノオの激励
最後の試練を終えた大国主神は、スサノオの頭の虱取りを命じられる。 実はその頭には虱ではなくムカデがびっしり…。 スセリビメが授けた木の実と赤土を使い、ムカデを噛み砕いたように見せかけてやり過ごした。
スサノオが眠った隙に、大国主神は彼の髪を柱に結びつけ、 五百人で動かすほどの大岩で部屋の出入口を塞ぎ、 スセリビメを背負って、生大刀・生弓矢・天詔琴【あめののりごと】を持ち逃げ出した。
しかし、天詔琴が木に触れて大地が揺れるような音を立て、スサノオが目を覚ました。 怒り狂って追いかけるも、髪を結ばれていたため、逃げるふたりには追いつけない。

黄泉比良坂【よもつひらさか】まで追ってきたスサノオは、遠くにいる大国主神にこう叫んだ。
「その生大刀と生弓矢で兄弟神たちを追い払い、 お前が大国主神となり、宇都志国玉神【うつしくにたまのかみ】となれ! 娘のスセリビメを正妻にし、出雲の宇迦の山のふもとに宮殿を建てて暮らせ!」
こうして、スサノオの試練と祝福を受けた大国主神は、地上に戻り、 兄弟神たちを退けて、国造りの神としての道を歩み始める。

妻問いと愛の歌
大国主神には多くの妻がいたが、最初に結ばれたのは「因幡の白兎」で登場したヤガミヒメ。 しかし、正妻となったスセリビメの激しい嫉妬心に恐れをなし、 ヤガミヒメは生まれたばかりの子を木の股に挟んで因幡へ帰ってしまった。 この子は後に木俣神【きまたのかみ】と呼ばれるようになった。
さらに、大国主神は遠く越国【こしのくに】の沼河比売【ヌナカワヒメ】にも求婚した。 何度も通い詰め、ついに結ばれることになったが、 スセリビメの嫉妬は激しく、大国主神は出雲を離れ、大和へ向かう決意をする。
その旅立ちの朝、スセリビメは大国主神に別れの盃を差し出し、 切なくも美しい和歌を詠む。
八千矛神よ、私の大国主よ。 あなたは男だから、各地に妻がいるのでしょう。 でも私は女。あなた以外に夫はいません。 綾織の帳の下、柔らかな寝具の中で、 私の白い胸と腕を抱いて、どうかお休みください。 さあ、お酒をお飲みなさい。
この歌に心を打たれた大国主神は、スセリビメと盃を交わし、夫婦の契りを結びむ。 ふたりは互いに腕を首にかけ、仲睦まじく鎮座したと伝えられている。
試練を越えて、国造りの神へ
根の国での試練、愛する者との逃避行、そして数々の妻問い―― 大国主神の物語は、人間味あふれる神の成長と愛の物語でもある。
彼が築いた国は、国譲りを経て、やがて天孫降臨によって新たな時代を迎えることになる。
大国主神の国つくり
― 出雲から始まる、国造りの神話 ―
出雲の美しい海辺、御大の御前【みほのみさき】に立つ大国主神。 彼の前に、波の向こうから不思議な姿の神が現れる。ここから、日本の国土を形づくる「国つくり」の物語が始まる!
波の上から現れた小さな神
ある日、大国主神が海辺に立っていると、波の上に浮かぶ小さな船が近づいてきた。 その船は、蘿茶【ががいも】の実で作られた天の羅摩船【らまのふね】。 乗っていたのは、蛾の羽のような衣をまとった小さな神であった。
大国主神が「あなたは誰ですか?」と尋ねても、その神は答えない。 周囲の神々に尋ねても誰も知らず、最後に蝦蟇【がま】に聞いてみると、こう答えた。
「それは久延毘古【クエビコ】なら知っているでしょう。」
久延毘古――それは、田の神であり、すべてを知る案山子の神。 彼に尋ねると、こう答えた。
「その神は、神産巣日神【カミムスビカミ】の御子、少名毘古那神【スクナビコナノカミ】です。」
二柱の神による国つくり
大国主神は、神産巣日神に報告した。 すると神産巣日神はこう言った。
「それはまさしく私の子。 葦原色許男命(=大国主神)よ、 少名毘古那神と兄弟となり、共にこの国を作り固めなさい。」
こうして、大国主神と少名毘古那神の二柱の神は力を合わせ、 葦原中国【あしはらのなかつくに】――すなわち日本の国土を形づくっていった。
しかし、ある日、少名毘古那神は遠い常世国【とこよのくに】へと旅立ち、姿を消してしまった。
再び訪れた神との誓い
ひとり残された大国主神は、空を見上げてつぶやく。
「私はこれから、どうやってこの国を完成させればよいのだろう…。 どこかに、私と共に国を作ってくれる神はいないだろうか。」
そのとき、海の彼方から光を放ちながら近づいてくる神が現れた。 その神はこう言います。「私を丁重に祀るならば、あなたと共に国を作りましょう。 しかし、祀らなければ、うまくいかないでしょう。」

大国主神は尋ねる。「では、あなたの魂をどこに祀ればよいのですか?」
その神は答えました。「大和を囲む山々の東の山に、私の魂を斎き祀りなさい。」
この神こそ、後に御諸山【みもろやま】――現在の三輪山(奈良県)に鎮座する神とされ、 大国主神の国つくりを霊的に支えた存在である。
神々とともに築かれた国
大国主神の国つくりは、出会いと協力、そして祈りによって進められた。 少名毘古那神との兄弟の絆、そして御諸山の神との誓い―― それは、日本という国が神々の意志と調和の中で築かれたことを物語っている。
国譲り神話
大国主神の決断と新たな時代のはじまり― 天と地の神々が交わるとき ―
出雲の地を中心に国を築き上げた大国主神。 その国「葦原中国」は、やがて天照大御神の御子が治めるべき国とされ、 天と地の神々の間で、壮大な交渉と決断が繰り広げられていく。
天照大御神の命と最初の使者たち
天照大御神はこう宣言する。「この豊葦原之千秋長五百秋之水穂国【とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに】は、 私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命【マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト】が治めるべき国です。」
しかし、地上は荒ぶる神々で騒がしく、忍穂耳命は降臨をためらい、天に引き返してしまう。
そこで、天照大御神と高御産巣日神は、天安河の河原に八百万の神々を集め、 知恵の神・思金神に相談する。
まず派遣されたのは天菩比神【アメノホヒノカミ】。 しかし彼は地上で大国主神に取り入ってしまい、三年経っても報告せず…。
次に選ばれたのは天若日子【アメノワカヒコ】。 彼もまた、大国主神の娘・下照比売【シタテルヒメ】と結婚し、 国を自分のものにしようと企み、八年も報告を怠る。
天若日子の死と悲しみの歌
天照大御神は、雉の神「鳴き女」【ナキメ】を使者として地上に送り、天若日子に問いただした。 しかし、天若日子はその雉を天津神から授かった弓矢で射殺してしまう。
その矢は天へと飛び、天照大御神と高御産巣日神のもとへ届く。 高御産巣日神は矢を見てこう言った。
「もし天若日子が正しく使命を果たしているなら、この矢は当たらない。 だが、もし邪な心を持っているなら、この矢は彼を討つだろう。」
矢は地上へ返され、天若日子の胸を貫き、命を奪った。
葬儀の場には、彼の妻・下照比売の嘆きの声が風に乗って高天原に届き、 天若日子の両親も地上に降りて涙を流した。
そこへ現れたのが、下照比売の兄・阿遅志貴高日子根神【アジスキタカヒコネノカミ】。 彼の姿が天若日子にあまりに似ていたため、両親は「息子が生きていた!」と勘違いし、すがりついた。
怒った阿遅志貴高日子根神は、喪屋を壊し、空へと飛び去ってしまった。 その姿を見送った下照比売は、彼の名を明かす美しい歌を詠んだ。
建御雷神の降臨と国譲りの交渉
次なる使者として選ばれたのは、剣の神・建御雷神【タケミカズチノカミ】。 彼は天鳥船神【アメノトリフネノカミ】とともに、出雲の稲佐の浜に降り立った。
剣を逆さに突き立て、その刃の上にあぐらをかいて座り、 大国主神にこう問うた。「この国は、天照大御神の御子が治めるべき国です。 あなたは、どうお考えですか?」
大国主神は答えた。「私には決められません。まずは息子の八重事代主神【ヤエコトシロヌシノカミ】にお尋ねください。」
事代主神はすぐに呼び戻され、こう答えた。「かしこまりました。この国は、天津神の御子にお譲りいたします。」
彼はそのまま船を青柴垣に変えて、静かに身を隠した。
建御名方神との力比べ
しかし、もう一人の息子、建御名方神【タケミナカタノカミ】が現れた。「誰だ、私の国で勝手な話をしているのは! 力比べで決着をつけよう!」
彼は建御雷神の手を掴んだが、手は氷柱や剣に変化し、驚いて後退。 逆に建御雷神に手を握られると、若い葦のように握りつぶされ、投げ飛ばされてしまった。
逃げた建御名方神は、信濃の諏訪の湖まで追い詰められ、命乞いをする。「この地から出ません。父にも兄にも逆らいません。 この国は、天津神の御子にお譲りいたします。」
大国主神の決断と神殿の約束
建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再び問うた。「あなたの子たちは、国を譲ると申しました。 あなたは、どうされますか?」
大国主神は静かに答えた。「私も、子たちの言葉に背きません。 この国を天津神の御子にお譲りいたします。 ただし―― 私のために、地の底に太い柱を立て、空高くそびえる神殿を建ててください。 それが叶うなら、私は遠い幽界に退きましょう。」
この願いを受けて、出雲の多芸志の浜【たぎしのはま】に、 天の御舎【あめのみあらか】――神殿が建てられた。
こうして、建御雷神は高天原に戻り、 葦原中国の平定と国譲りの完了を報告したという。
譲るという強さ
この「国譲り」の神話は、力による征服ではなく、対話と誓約による平和的な移譲を描いた、 日本神話の中でも特に美しく、深い意味を持つ物語である。
大国主神の決断は、譲ることの強さと、未来への信託を象徴している。 そしてその精神は、今も出雲大社に息づいているようだ。
次は、いよいよ天孫降臨―― 天照大御神の孫・邇邇芸命【ニニギノミコト】が地上に降り立ち、 新たな時代が始まる瞬間へと続いていく。
天孫降臨―ニニギの使命
― 天の御子が地上に降り立つとき ―
国譲りが果たされ、地上の国・葦原中国が平定されたとき、 天照大御神は、いよいよ天の御子を地上に送り出す決断を下す。
太子の辞退とニニギの誕生
天照大御神と高御産巣日神は、 太子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に命じた。「今こそ、地上に降りて国を治めなさい。」
しかし太子はこう答えた。「私が降臨の準備をしていたとき、子が生まれました。 その名は―― 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命【アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギノミコト】。 この子を地上に遣わすのがよいでしょう。」
こうして、ニニギが地上を治める使命を受けることになった。
三種の神器と神々の同行
天照大御神は、ニニギに三種の神器を授ける。
- 八尺瓊勾玉【やさかにのまがたま】
- 八咫鏡【やたのかがみ】
- 草那芸剣【くさなぎのつるぎ】
そして、彼にこう告げた。「この鏡を私の魂として、ひたすら拝み祀りなさい。」
さらに、ニニギの降臨には三柱の神々が同行した。
- 思金神【オモイカネノカミ】:知恵と祭祀の神
- 天手力男神)【アメノタヂカラオノカミ】:天岩戸を開いた怪力の神
- 天石門別神【アメノイワトワケノカミ】:天界の門を守る神
天孫降臨:高千穂の地へ
いよいよ、天孫降臨【てんそんこうりん】のときが訪れる。
ニニギは、天の石位【いわくら】を離れ、 天の八重多那雲【やえたなくも】を押し分け、 天浮橋【あめのうきはし】を渡って、 地上の浮島――筑紫の日向の高千穂【たかちほ】へと降り立った。
その地を見たニニギは、こう語った。「この地は、朝日が昇り、夕日が沈む、美しき国。 韓国【からくに】に向かい、笠沙の岬に通じる。 ここは、まことに良き土地だ。」
彼は地の底深くに太い柱を立て、空に届くような壮大な宮殿を築き、 この地を拠点として、新たな時代の統治を始めたのである。
道案内をした神:猿田毘古神
ニニギの降臨を導いたのは、地上の神である猿田毘古神【サルタヒコノカミ】。 彼は、天の八衢【あまのやちまた】――道がいくつにも分かれる場所でニニギを出迎え、 地上への道を先導した。
この出会いは、天と地の神々が手を取り合う象徴的な瞬間でもあった。
神の子が降り立った地、高千穂
天照大御神は孫のニニギに、地上を治めるよう命じる。これが「天孫降臨」。ニニギは三種の神器(鏡・剣・勾玉)を携え、高千穂の峰に降り立つ。
ニニギ命が降り立った高千穂の地は、今も神話の息づく聖地として知られている。 その地に降り注ぐ光、そびえる山々、流れる滝―― まるで神々の気配が今もそこにあるかのようである。
このエピソードは、後に天皇家へとつながる神話的ルーツとされ、日本の国体の神聖性を語る重要な場面でもある。
あとがき
神話は今も生きている
『古事記』に描かれた神々の物語は、単なる昔話ではなく、日本の文化や精神、そして自然観に深く根ざしている。神社の祭礼や風習、地名の由来など、今も私たちの暮らしの中に息づいている。
神話の世界を旅することは、過去を知るだけでなく、自分たちの「今」を見つめ直すきっかけにもなるかもしれない。