はじめに
日本神話の中でも、天と地をつなぐ「天孫降臨」から始まる物語は、 ― 天から地へ、そして海と山へ ―神々の血脈と人間世界のはじまりを描く壮大な章である。
本記事では、天孫・ニニギの恋物語と、彼の子孫である海幸彦・山幸彦兄弟の冒険譚を、『古事記』の記述をもとにたどってみることにしよう。
天孫降臨と恋のはじまり
国譲りが果たされ、地上が平定されたとき、 天照大御神は孫の邇邇芸命【ニニギノミコト】に、地上を治めるよう命じる。 ニニギは、三種の神器とともに、神々の導きを受けて高千穂の峰に降り立つ。 これが「天孫降臨」と呼ばれる名場面である。
ニニギとサクヤヒメの出会い
そんな天孫降臨を果たしたニニギが、笠沙の御崎を訪れたときのこと。彼の目に映ったのは、まるで春の花のように美しい少女であった。ニニギが出会ったのが、木花咲耶姫【コノハナサクヤヒメ】。 富士山の神・大山津見神の娘で、その美しさは桜の花のよう。 ニニギは一目で恋に落ち、すぐに結婚を申し込むことになる。
サクヤヒメの姿に心を奪われたニニギは、彼女にそっと尋ねた。「あなたは、どなたの娘なのですか?」
少女は静かに答えた。「私は大山津見神の娘、神阿多都比売【カムアタツヒメ】です。別名を木花佐久夜毘売【コノハナサクヤヒメ】と申します。」
その名の通り、花のように可憐な彼女に、ニニギはさらに問いかける。「あなたには姉妹がいますか?」
サクヤヒメは、「はい、姉に石長比売【イワナガヒメ】がおります。」と答えた。
そして、ニニギはまっすぐに想いを伝えました。「私はあなたと結婚したいと思っています。どうでしょうか?」
しかし、サクヤヒメは慎み深くこう答えた。「そのお返事は、私の父・大山津見神にお尋ねください。」
こうして、神々の縁が結ばれる物語が、静かに動き出したのである。
ニニギとサクヤヒメの婚姻
なぜ天皇に「寿命」があるのか?──ニニギと姉妹神の物語
ニニギが美しいサクヤヒメに心を奪われ、結婚を申し込んだという話には、実は深い神話的な意味が込められている。
ニニギの申し出を受けたサクヤヒメは、父である大山津見神にその旨を伝えた。大山津見神はこの縁談を大いに喜び、娘のサクヤヒメに加えて、姉の石長比売【イワナガヒメ】も一緒に送り出した。そして、百取の机代【ももとりのつくえしろ】と呼ばれるたくさんの結納品を添えて、盛大に祝福の意を表した。
ところが、ニニギはイワナガヒメの姿を見て驚く。彼女は容姿が醜く、ニニギは恐れて彼女を送り返してしまった。そして、美しいサクヤヒメだけを側に残し、一夜を共にした。
この出来事に、大山津見神は深く恥じ入り、こう語ったという。
「私が二人の娘を共に差し出したのは、それぞれに意味があったからです。 石長比売が仕えれば、天津神の皇子の命は岩のように永遠に揺るがぬものとなったでしょう。 サクヤヒメが仕えれば、木の花のように美しく咲き誇る繁栄がもたらされるでしょう。 しかし、あなたが石長比売を退け、サクヤヒメだけを選んだことで、あなたの命は花のように儚く、限りあるものとなるでしょう。」
こうして、ニニギの子孫である天皇たちは、神の血を引きながらも不老不死ではなく、人と同じように寿命を持つ存在となったと伝えられている。石長比売【イワナガヒメ】は「岩のように永遠の命」を象徴していたのである。
サクヤヒメの誇りと覚悟──火中出産
ニニギと結ばれたサクヤヒメ。やがて彼女は身ごもり、出産の時を迎える。彼女はニニギのもとを訪れ、こう告げた。
「私はあなたの子を授かり、もうすぐ生まれます。この子は天津神の御子ですから、私一人で産むわけにはいきません。だからご報告に参りました。」
しかし、ニニギは彼女の言葉を疑いの目で見つめ、冷たく言い放つ。
「たった一晩の契りで子を授かったというのか? それは私の子ではなく、国津神の子ではないのか?」
この言葉に、サクヤヒメは深く傷つきながらも、毅然とした態度で答える。
「もしこの子が国津神の子であれば、無事に生まれることはないでしょう。ですが、天津神の御子であれば、きっと無事に生まれてくるはずです。」
そう言うと彼女は「戸無き八尋殿」【とのなきやひろどの】という窓も扉もない宮殿を建て、その中に自ら入った。そして、出産の時が来ると、自ら火を放ち、炎の中で命をかけて子を産んだ。
その火の中から無事に生まれたのが、三柱の神々:
- 火照命【ホデリノミコト】(のちの海幸彦)
- 火須勢理命【ホスセリノミコト】
- 火遠理命【ホオリノミコト】(のちの山幸彦)
このうち、火遠理命(ホオリ=山幸彦)が、のちに壮大な冒険を繰り広げることになる。
海幸彦と山幸彦の兄弟物語
─兄弟のすれ違いと海神の宮への旅─
ニニギとサクヤヒメの間に生まれた三柱の神々。そのうちの二柱、火照命【ホデリノミコト)と火遠理命【ホオリノミコト】は、それぞれ海幸彦【ウミサチヒコ】と山幸彦【ヤマサチヒコ】と呼ばれるようになった。
ホオリとホデリは、性格も得意なことも正反対の兄弟。 兄のホデリ(海幸彦)は漁が得意、弟のホオリ(山幸彦)は狩りが得意であった。そのため、海幸彦は海で魚を獲る漁師、山幸彦は山で獣を狩る猟師であった。
ある日、山幸彦は兄の海幸彦にこう提案する。「お互いの道具を交換して、違う世界を体験してみない?」
何度も頼んだ末、ようやく兄が承諾し、二人は道具を交換した。しかし、山幸彦は慣れない釣りにまったく成果が出せず、ついには兄の大切な釣り針を海に落としてしまう。
兄の海幸彦は激怒し、「あの釣り針を返せ!」と強く迫った。困った山幸彦は、謝罪の気持ちを込めて剣を砕き、500本もの釣り針を作って差し出すが、兄は受け取らない。さらに1000本作っても、やはり拒否されてしまう。
絶望した山幸彦は、海辺で涙を流していた。そこへ現れたのが、潮の神・塩椎神【シオツチノカミ】。
「どうして天津神がこんなところで泣いているのですか?」
山幸彦は事情を話した。すると塩椎神は優しく微笑み、こう言った。「それなら、私が良い方法を教えましょう。」
彼は竹で隙間なく編んだ小さな船を作り、山幸彦を乗せて海へと送り出す。
「この船で進みなさい。良い潮の流れに乗れば、魚の鱗のように家々が並ぶ、美しい海の宮殿にたどり着くでしょう。そこは海神・綿津見神【ワダツミノカミ】の御殿です。門に着いたら、泉のそばにある湯津香木【ユツカグノキ】の上に座って待ちなさい。きっと、海神の娘があなたを見つけてくれるでしょう。」
こうして、山幸彦の新たな冒険が始まる。海の底に広がる神秘の世界で、彼を待っていた運命とは──?
豊玉姫との運命の出会い
─山幸彦と豊玉毘売の恋と、失われた釣り針の行方?─
兄・海幸彦の釣り針をなくしてしまい、海辺で涙を流していた山幸彦。そんな彼を助けたのが、潮の神・塩椎神である。塩椎神の導きに従い、竹で編まれた小舟に乗って海の流れに身を任せると、やがて目の前に現れたのは、まるで魚の鱗のように家々が並ぶ、美しい海の宮殿であった。
宮殿の門のそば、泉のほとりに立つ香木の上に腰を下ろして待っていると、そこへ現れたのは、海神の娘・豊玉毘売【トヨタマヒメ】の侍女。彼女が泉の水を汲もうとしたそのとき、水面に美しい光が差し込み、見上げると、そこには凛々しい青年の姿が──それが山幸彦である。
水を求められた侍女は、宝石で飾られた器に水を汲んで差し出す。山幸彦は水を飲まず、首飾りの玉のひとつを口に含み、それを器に吐き出した。不思議なことに、その玉は器にぴたりとくっついて離れない。驚いた侍女は、そのまま器を持ち帰り、豊玉毘売に見せた。
器にくっついた玉を見た豊玉毘売は、「門の外に誰かいるのでは?」と気づく。侍女が事情を話すと、豊玉毘売は山幸彦に一目惚れ。父である海神に「とても美しい方が門の外にいます」と伝えた。
海神はその青年を見て、「これは天津日高の皇子、虚空津日高【ソラツヒコ】だ」と気づき、すぐに宮殿へ招き入れた。八重に重ねたアシカの皮を敷き、山幸彦をもてなし、娘・豊玉毘売との結婚を許す。こうして二人は結ばれ、山幸彦は海の宮で三年間を過ごした。
忘れられた釣り針、そして海神の知恵
ある夜、山幸彦がふと大きなため息をつく。それを聞いた豊玉毘売は心配し、父に相談。海神が理由を尋ねると、山幸彦は兄の釣り針をなくしてしまったこと、そしてそれを返せと責められていることを打ち明けた。
海神はすぐに海のすべての魚たちを呼び集め、「釣り針を飲み込んだ者はいないか?」と尋ねる。すると、魚たちは「赤い鯛が喉に骨が刺さって苦しんでいる」と報告。調べてみると、なんとその喉から失われた釣り針が見つかった!海神は釣り針を清めて山幸彦に渡し、さらにこう助言する。
「この釣り針を兄に返すときは、『コノチハ、オボチ・ススチ・マヂチ・ウルチ』と唱え、手を後ろにして渡しなさい。 兄が高地に田を作れば、あなたは低地に。兄が低地に作れば、あなたは高地に田を作りなさい。 私が水を操って、三年後には兄の田は干ばつに苦しむでしょう。 もし兄が怒って攻めてきたら、この塩盈珠【シオミツタマ】で水を満たして溺れさせなさい。 助けを求めてきたら、塩乾珠【シオフルタマ】で水を引いて助けなさい。 そうして、兄に思い知らせるのです。」
こうして山幸彦は、釣り針とともに、海神から授かった二つの神宝を手に、再び地上へと戻っていくのであった。
海の旅の終わりと、愛の別れ
─山幸彦の帰還と豊玉毘売命の涙─
海神の宮で三年を過ごした山幸彦は、ついに地上へ戻る決意をする。海神はその旅路を安全なものにするため、海の生き物たち──和邇(ワニ、古代のサメやワニのような存在)を集めてこう尋ねた。
「天津日高の皇子を、誰が最も早く地上へ送り届けられるか?」
すると、一尋(ひとひろ=両手を広げた長さ)の和邇が「私なら一日で送り届け、戻ってこられます」と名乗り出た。海神はその和邇に山幸彦を託し、「決して怖がらせてはならぬぞ」と念を押す。
こうして山幸彦は和邇の背に乗り、無事に一日で地上へ帰還。別れ際、感謝の印として自らの紐小刀を和邇の首にかけて贈った。この和邇は後に佐比持神【サヒモチノカミ】として祀られることになる。
兄との決着──塩の珠がもたらした逆転劇
地上に戻った山幸彦は、海神から授かった教えの通りに行動する。呪文を唱えながら、兄・海幸彦に釣り針を返した。
すると、兄の運命は次第に傾き始める。田は実らず、生活は困窮し、ついには怒りに任せて弟に戦を仕掛けてきた。
そのとき、山幸彦は塩盈珠を使って海を呼び寄せ、兄を溺れさせた。海幸彦が命乞いをすると、今度は塩乾珠で水を引き、助け出した。
この一連の出来事に心を打たれた海幸彦は、こう誓う。「これからは、昼も夜もあなたを守る守護人としてお仕えします。」兄弟の争いは、こうして終わりを迎えた。
禁を破った代償──豊玉毘売命との別れ
しばらくして、豊玉毘売命が山幸彦のもとを訪れた。「私は身ごもり、出産の時を迎えました。天津神の御子を海で産むわけにはいきません。だから、地上に参りました。」
彼女は海辺に産屋【うぶや】を建て、鵜の羽を屋根の代わりにして出産の準備をする。しかし、屋根が完成する前に産気づき、産屋に入らざるを得なくなった。
そのとき、豊玉毘売命は山幸彦にこう告げる。「異国の者は、出産のときに本来の姿に戻ります。どうか、私の姿を見ないでください。」
けれども、山幸彦はその言葉に好奇心を抑えきれず、こっそりと産屋を覗いてしまう。そこにいたのは、八尋和邇【やひろわに】の姿に変わった豊玉毘売命。巨大な海獣のような姿で、身をくねらせながら出産していたのである。その姿に驚いた山幸彦は、恐れをなして逃げ出してしまった。
出産を終えた豊玉毘売命は、覗かれてしまったことを知り、深く恥じ入る。「私は、あなたと共にこの地と海を行き来しようと思っていました。でも、本来の姿を見られてしまった今、それは叶いません。」そう言い残し、彼女は生まれたばかりの皇子を地上に残し、海の道を閉ざして、海神の国へと帰っていった。
残された皇子の運命や、山幸彦のその後の物語が気になるところである・・・
神々の血脈、地上へと続く
神話から歴史へ──山幸彦の子と、初代天皇・神武誕生の物語
海神の娘・豊玉毘売命との別れの後、山幸彦のもとには一人の皇子が誕生した。その名も、 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命【アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト】。 あまりに長い名前であるが、「鵜の羽で屋根を葺く前に生まれた命」という意味が込められている。
豊玉毘売命は、山幸彦に本来の姿を覗かれたことを恥じ、海の国へ帰ってしまった。しかし、母としての愛情は消えることなく、息子の養育を託すために、自らの妹である玉依毘売命【タマヨリヒメ】を地上へと送り出す。
その別れの際、豊玉毘売命は切ない想いを歌に託した。「赤い玉を通した紐も美しいけれど、白い玉のようなあなたの姿こそ、私の心を照らすのです。」
それに応えるように、山幸彦も歌う。「鴨が鳴く島で共に眠った、あの愛しい妻を、私は決して忘れない。永遠に。」
こうして、山幸彦は高千穂の宮にて、580年もの長きにわたり国を治めたと伝えられている。
神武天皇の誕生へ─神話が歴史に変わるとき─
やがて、アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは、育ての親でもある叔母・玉依毘売命と結ばれ、四人の皇子をもうける。
その名は──
- 五瀬命【イツセノミコト】
- 稲氷命【イナヒノミコト】
- 御毛沼命【ミケヌノミコト】
- 若御毛沼命【ワカミケヌノミコト】 ※別名:豊御毛沼命【トヨミケヌノミコト】、またの名を神倭伊波礼毘古命【カムヤマトイワレビコノミコト】──後の初代天皇・神武天皇。
兄の稲氷命は母の故郷である海の国へ、御毛沼命は常世の国へと旅立った。そして末の皇子・神倭伊波礼毘古命が、やがて大和の地へと進軍し、日本の初代天皇として歴史の幕を開けることになる。
あとがき
神話がつなぐ、愛と冒険の系譜
ニニギの降臨とコノハナサクヤヒメとの恋、そして海幸・山幸兄弟の物語は、 ただの神話ではなく、人と神、天と地、愛と責任を描いた壮大な叙事詩である。
サクヤヒメの火中出産は、ただの神話ではなく、誇りと信念、そして母としての強さを象徴する物語である。まるで燃え上がる桜のように、命をかけて真実を証明した彼女の姿は、多くの人の心を打つことだろう。
とにかくサクヤヒメが妊娠した際のニニギの仕打ちはかなりひどくていただけない。本当にそう思ったのかも知れないが言葉に出すとは全く配慮が足りない。
その言葉で、それまで淑女のイメージをもっていたサクヤヒメが壮絶な火中出産をしてしまうのだから女性は分からないものである。
山幸彦と豊玉毘売命の恋物語は、信頼と誓い、そして別れの切なさを描いた神話の名場面である。 山幸彦と豊玉毘売命の愛は、まるで波のように寄せては返す、儚くも美しいものであったと言える。
この物語は、神話から歴史へとつながる大きな橋渡し。 神々の血を引く皇子が、いかにして「国のまほろば」へと歩みを進めたのか──その始まりが、ここにある。
そして、その血脈は、やがて日本の王権へとつながり、 神話は歴史へとバトンを渡していくことになる。