はじめに
京都市東山区に鎮座する八坂神社は、全国にある祇園社の総本社とされ、地元の方々からは「祇園さん」と呼ばれて親しまれている。八坂神社の主祭神は、記紀に記載された日本神話でも有名な素戔嗚尊【スサノオ】であり、その妻神である櫛稲田姫命【クシナダヒメ】も共に祀られている。
八坂神社は、日本三大祭の一つである「祇園祭」の胴元としても知られているが、大晦日の「をけら詣り」も有名である。「をけら詣り」は、一年の無病息災や家内安全、商売繁盛などを祈願するための重要な行事となっている。
八坂神社の「をけら詣り」は、大晦日の夜から元日の早朝にかけて行われる伝統的な神事である。この神事では、参拝者は境内の数箇所に設置された灯籠(をけら灯籠)から薬草オケラを燃やした火、いわゆる白朮火【おけらび】を吉兆縄【きっちょうなわ】(火縄)に移し、その火を消さないように吉兆縄を回しながら自宅に持ち帰る。オケラは、キク科の植物で、焚くと独特の香りがするので、邪気を祓い、疫病除けの御利益【ごりやく】があると言われている。
吉兆縄(火縄)を回しながら持ち帰った「白朮火」を元日の朝に雑煮の調理に使うと無病息災のご利益があると言われている。そして吉兆縄(火縄)は、台所に「火伏せ(火災防止)のお守り」として祀られる。
この八坂神社の「をけら詣り」に不可欠な吉兆縄に使用されている火縄の産地が三重県名張市上小波田地区に存在することを私が知ったきっかけは全くの偶然であった。私が名張市上小波田地区で「観阿弥創座の地」として記念碑が建つ観阿弥ふるさと公園への道順を尋ねた地元の方が、三重県の伝統工芸品に指定されている火縄の伝統技術を守っているグループ「上小波田火縄保存会」のリーダーであった。
親切にも火縄の作業場で原料となる竹材や製造過程を私に教えて下さったので、私は幸運にも「本物の火縄」の存在を初めて知ることができるとともに、その火縄が八坂神社の「をけら詣り」の吉兆縄として使用されていることを知るきっかけとなった。
三重県指定伝統工芸品
伝統工芸品とは、下記の要件を全て満たし、伝統的工芸品産業の振興に関する法律(昭和49年法律第57号)に基づく経済産業大臣の指定を受けた工芸品のことをいう。
- 主として日常生活で使用する工芸品であること
- 製造工程のうち、製品の持ち味に大きな影響を与える部分は、手作業が中心であること
- 100年以上の歴史を有し、今日まで継続している伝統的な技術・技法により製造されるものであること
- 主たる原材料が原則として100年以上継続的に使用されていること
- 一定の地域で当該工芸品を製造する事業者がある程度の規模を保ち、地域産業として成立していること
一方、三重県内において製造され、郷土の自然と暮らしの中ではぐくまれ、受け継がれてきた伝統性のある工芸品のうち、産地規模が小さいことなどにより、国の指定を受けることのできない工芸品で、次の要件を満たすものは「三重県指定伝統工芸品」として指定されている。
- 主として日常生活の用に供されるものであること
- その製造工程の主要部分が手工業的であること
- 伝統的な技術又は技法により製造されるものであること
- 伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるものであること
- 県内の一定の地域において、一定期間(100年以上)製造されていること
三重県では、国指定の伝統工芸品が5品目、県指定の伝統工芸品として33品目が指定されている。本稿で紹介する「火縄」は、三重県伝統工芸品に指定されている。
上小和田の「火縄」
三重県名張市上小波田地区で火縄の生産が始まったのは、江戸時代の寛文8年(1668年)年頃と伝わっている。火縄は、三重県の伝統工芸品に指定されている。
名張市小波田地区で制作される火縄は竹の繊維を縄に綯ったものである。火縄はもともと火縄銃に使用されたものであったが、現在は、主として京都祇園の八坂神社のおけら火に使用されている。
火縄はかつては火縄銃を発砲するための火種に使われてきた。火縄自体は、少なくとも400年の歴史があると言われている。火縄は国内の他の地域でも作られているようであるが、竹の繊維だけを材料としているのは現在では名張市上小波田地区だけであるとされる。火縄の品質が大変良く長い時間にわたって火を燃やすことができるそうだ。
上小波田地区の火縄は、自生する竹を薄くへぐように削り、これを縄を編むように作ったもので、火持ちがよくてなかなか消えないため、火縄銃や煙草の火種として江戸時代に使われていたという。
このように上小波田の火縄は、竹の繊維だけを材料としているため、その品質は非常に高く、長時間にわたって火を燃やすことができると言われている。実際に、上小波田の火縄は、油分を含んでいるため火持ちが良く、10cmで1時間は燃え続けるという。また、水をかけない限り火はほとんど消えないとされる。上小波田の火縄が重宝された所以である。
現在においても祇園八坂神社の「をけら詣り」の吉凶縄(火縄)として、その「伝統の灯」を守り続けているという。
製品名 | 火縄(三重県伝統工芸品) |
生産地 | 三重県名張市上小和田 |
生産者 | 上小波田火縄保存会 |
歴史
上小波田地区の火縄は、江戸時代の寛文8年(1668年)年頃と伝わっている。江戸時代に伊賀国名張を治めていた藤堂家に上小波田で製作された火縄を納めていたことが知られている。
藤堂家が1670年に火縄銃100丁分の火縄を小波田村に製作を依頼した文書が残っていると伝えられており、江戸時代から昭和までの長い期間、火縄は農閑期の農家の副業として作られてきたらしい。日本では火縄は1900年初頭まで使用されていたと言われている。
最盛期には八坂神社に火縄を7,000本を納めた記録が残っている。終戦後間もない頃までは20軒ほどの農家で作られていたらしいが、作り手が1人になるまで衰退したという。
この危機に「伝統の灯」を消してはならないと、2018年に地元の有志6人が集まり「上小波田火縄保存会」を結成したという。そして、火縄の伝統技術を共有し合って、三重県の伝統工芸品となった火縄の製作を続けながら現在に至っているらしい。
火縄の伝統技術の継承
火縄の伝統技術を守っているのが「上小波田火縄保存会」という地元のグループである。このグループによって制作された火縄は主として八坂神社の「をけら詣り」の吉兆縄(火縄)や時代劇で使用する火縄銃の火縄などに使われている。
一度は衰退しかけた火縄作りが、再び地元の有志によってその伝統技術が受け継がれていることは喜ばしい。しかしながら、その有志たちも高齢者ばかりになっており、次の世代への引継ぎが課題であろう。
原材料
材料の真竹は火縄を製作する年に収穫したものを使うという。具体的には、地元に生育した2年目の真竹を11月頃に切り、この竹を刃物で表面をへぐようにして削り、薄い皮状の素材を作って縄としている。
使用する真竹は、節間が一尺五寸(約46cm)もある長くて良質のものが選ばれているようだ。竹一節から3.3mの火縄を2本分作ることができるという。
制作方法
1.真竹の表面を薄く削り取っていく
まず真竹の表面をナタで削っていくが、縄を作るのに適した厚さに削れるようになるには経験の積み重ねが必要だという。
一見簡単そうに見えるが、それは熟練の技が傍目にはそのように見えるだけであって、実はすごく難しいのだと思う。
硬い竹を加工するので強い力が必要で、真冬でも汗だくになるほどの重労働らしい。
2.竹皮を揉み込み、ほぐす
削った竹皮は、よく揉み込んで、ほぐしていく。各工程にはスピードが要求されるので、長年の経験を積む必要があるという。
3.両手でこするようにして縄をなう
ほぐした竹皮を4本分選んで固定し、2本分ずつより合わせて両手でこするようにして縄をなう。出来た2本の縄をさらに1本の縄により合わせていく。
より合わせる途中でさらに4本分のほぐした竹を継ぎ足して一緒により合わせて長くしていく。
この作業を繰り返し、一定の太さを保って3m30cmの長さの縄にしていく。
4.縄を陰干しで乾燥させる
縄にしたらものを3~4日ほど陰干しで乾燥させれば、火縄の完成である。
特徴
火縄の長さが3m30cmである理由は、火縄銃用の火縄として使用されていた頃の名残りであるらしい。火縄銃が日本に伝わった頃から火縄銃用の火縄の長さは、およそ1フィート(305mm)であったらしい。そして、火縄銃での実際の使用では、火縄の両端に点火しておくことがよくあったと伝わっている。
火縄の材料は、通常、麻や亜麻の紐で、ゆっくりと安定して長時間燃焼するように化学処理されていたという。そして、火縄の燃焼速度は1時間あたりおよそ1フィート(305mm)であったとされる。
しかし、日本では火縄は竹やヒノキの樹皮を編むことでも作られたと伝わっている。それは燃焼時間の延長を目指した創意工夫であったのかも知れない。
事実、上小波田の火縄は油分を含んでいるため火持ちが良いため10cmで1時間燃え続けるらしいから火縄として性能が高い。しかも、水をかけない限り火はほとんど消えないと言われているから、火縄銃用の火縄としては重宝されたであろう。
尤も、上小波田の火縄は、その制作開始年から考えれば、日本で火縄銃が最も活用された戦国時代後期には間に合っていないので、実戦にあまり使用されていない可能性が高いかも知れない。
しかし、その上質な火縄は、かつては主に火縄銃のために作られていたが、現在は京都祇園の八坂神社の「をけら詣り」の神事に使用され、「お守り」として一般の人々の暮らしに寄り添うものになっている。
あとがき
名張市上小和田地区の火縄が八坂神社の神事で使われるようになったのはいつ頃なのか具体的な年代は分からない。しかしながら、「上小和田の火縄」作りは江戸時代から続いており、現在でも八坂神社の年越し行事「をけら詣り」で使用されている。
真竹から作られる「上小和田の火縄」は、全国的に見ても珍しいと言われており、上質な火縄であることから、八坂神社で神事に使用され、縁起物として重宝されていても驚かなくなった。
八坂神社の伝統の神事を後世にも伝えていくためにも、旧伊賀国に残る伝統工芸品である「上小和田の火縄」の伝統技術を後世にも継承していってっもらいたいと思う。