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平家落人伝説

平家落人伝説が残る紀伊半島の山里地域

はじめに

源平合戦の終焉とともに、歴史の表舞台から姿を消した平家一門。だが、彼らの物語は終わっていなかった。紀伊半島の深い山々には、現代もなお平家落人伝説が静かに息づいている山里がある。

目次
はじめに
熊野の奥地に残る伝承
平治川村の平家落人伝説
皆瀬川村の「平家窟」
田代村の「旗竹伝説」
吉野の山里に残る落人伝説
下北山村に残る伝承
上北山村の平家落人伝説
十津川村の平家落人伝説
吉野・野迫川村に残る平維盛の伝説
南伊勢・八ヶ竃の物語
あとがき

熊野の奥地に残る伝承

和歌山県の熊野地方には、江戸時代の地誌『紀伊続風土記』にも記録された落人伝説が数多く残っている。

たとえば、平治川村皆瀬川村の平家窟などは、平家の残党が隠れ住んだとされる場所として知られている。地名や谷川の名に「平氏」の痕跡が残り、今もその記憶を伝えている。

平治川村の平家落人伝説

平治川村【へいじがわむら】は、和歌山県田辺市本宮町の山深い地域に位置し、平家落人伝説が色濃く残る集落である。

平治川村は、かつて「奥平治」と「口平治」に分かれていた深山の僻村で、周囲は険しい山々に囲まれていた。

村の西方には「要害ヵ森」という場所があり、ここは平家の落人が隠れ住んだとされる地でもある。今も城地の形が残っていて、そこから流れる谷川が平氏川と呼ばれ、村名の由来になったとされている。この伝承は、江戸時代の地誌『紀伊続風土記』にも登場しているという。

村の名勝「平治の滝」は、落差33mの二段構造で、上段が「雄滝」、下段が「雌滝」と呼ばれている。

この滝は雨乞いの霊験があるとされ、梅干しの種を投げ入れると雷が鳴って雨が降るというユニークな伝説も残る。滝の主は大蛇で、梅干しを嫌うという言い伝えも残されている。

昭和48年(1973年)の集落再編整備事業により、平治川村の全戸が温水団地へ移転し、離村となったが、地域の文化は残っている。平家の落人たちが武器を持って踊ったとされる平治川の長刀踊【なぎなたおどり】は和歌山県の無形民俗文化財として保存され、地元の子どもたちに継承されている。


皆瀬川村の「平家窟」

皆瀬川村【みなせがわむら】は、現在の和歌山県田辺市本宮町皆瀬川に位置する山間の集落で、平家落人伝説が残る平家窟【へいけのいわや】があることで知られている。

皆瀬川村は、熊野川の支流である筌川【うけがわ】の上流に位置し、周囲は妙法森や鳥屋森などの山々に囲まれた静かな谷地である。

村名の由来は「水が絶える川」=「水無瀬川」から来ていて、谷水が地中を潜流することが多かったことにちなんでいると言われている。

村の奥地「鶴持谷」には、平家窟と呼ばれる洞窟があり、ここに平家の落人が身を隠していたという伝説が残っている。

この洞窟は、地元の人々にとって神聖な場所とされていて、今でも祠のように扱われている。

『寛文雑記』などの古文書にも記録があり、熊野地方の平家落人伝説の中でも特に古くから語り継がれている。

皆瀬川村の近くには川湯温泉があり、川底から温泉が湧き出るという珍しい地形で、川原を掘って浴槽を作り、温泉で湯浴みを楽しむことができる。


田代村の「旗竹伝説」

旗竹伝説【はたたけでんせつ】は、和歌山県田辺市本宮町田代に伝わる平家落人伝説に関わる伝承である。

田代村は、熊野の山深い谷間にある静かな集落で、かつては熊野川支流の筌川【うけがわ】沿いに広がっていたという。その筌川の北側の川岸にある竹林が竹口薮【たけぐちやぶ】と呼ばれ、ここに平家の旗竹が生えていると伝えられている。

この竹は、平家の落人たちが持っていた旗竿から生えたとされていて、「平家の旗竹」と呼ばれている。

地元の人々はこの竹をとても大切にしていて、決して伐ってはならないという言い伝えを信じている。

もしこの竹を伐ると、「村中の牛が一斉に吠える」とか、「伐った人に祟りがある」といった不吉な出来事が起こるとされている。

実際に「祟りを受けた者が4~5人いた」とも伝えられていて、今でも伐採を避けているらしい。

昔は8~9本あった旗竹も、今ではわずか3~4本しか残っていないとされている。

それでも、地域の人々はこの竹を神聖なものとして守り続けていて、平家の記憶を静かに伝える生きた証になっている。


吉野の山里に残る落人伝説

奈良県吉野地方にも、平家落人伝説がしっかり残っている。特に注目されているのが、野迫川村【のせがわむら】に伝わる平維盛【たいらのこれもり】の物語である。

下北山村に残る伝承

下北山村は、熊野川の源流域に位置していて、古くから北山郷と呼ばれていた地域である。

村の公式史には、南北朝時代の護良親王の伝承が中心であるが、地理的には平家落人が熊野から逃れてきたルート上にあるため、落人が潜伏した可能性は高いとされている。

村内には前鬼の行者堂釈迦ヶ岳など、修験道と関わりの深い場所もあり、平家の残党が修験者として生き延びたという説も残されている。


上北山村の平家落人伝説

上北山村には明確な平家落人伝説の記録は少ないが、吉野山地を通じて落人が逃れてきた可能性が高い地域とされる。

村の公式サイトには「化け猫退治」や「猪笹王」などの民話が残っていて、戦乱を逃れた人々の記憶が物語として形を変えて残っているとも考えられている。

地理的にも熊野・吉野ルートの延長線上にあるため、平家の落人が通過・定住した可能性は十分あるとされている。


十津川村の平家落人伝説

十津川村には玉置直虎【たまき なおとら】という人物が登場する伝承がある。彼は一ノ谷から落ち延びた平家の武将とされていて、村の開祖の一人と伝えられている。

村内には「墓の藪」と呼ばれる石塔群があり、中央の五輪塔を囲むように宝篋印塔が並んでいて、平家の供養塔とされている。

さらに、平維盛の家来が持っていたとされる名刀・子烏丸【こがらすまる】が十津川村に伝わり、後に皇室に献上されたという話も残されている。


吉野・野迫川村に残る平維盛の伝説

平維盛は平清盛の孫で、源平合戦で敗れた後、熊野・吉野の山中を流浪し、最終的に野迫川村で生涯を終えたと伝えられている。

熊野水軍に援軍を求めるために派遣されたが、援軍は得られず、代わりに姫を娶って匿われたという話もある。

その後、源頼朝による平家狩りが始まると、維盛は奥熊野から吉野山地を北上して野迫川村にたどり着き、1219年にこの地で亡くなったとされている。

野迫川村には「平維盛塚」があり、周辺には歴史資料館庭園、展望台が整備されていて、維盛にまつわる伝承を映像やジオラマで紹介している。

毎年7月には「平維盛大祭」が開催されて、御霊祭や夜叉太鼓、花火大会などが行われている。

また、吉野町公式サイトでも、源義経や平安末期にまつわる伝承が紹介されていて、吉野地域全体が源平時代の物語に彩られている。

野迫川村は奈良県吉野郡に属していて、吉野山地の一部として平家落人伝説の舞台になっている。つまり、吉野地方には平維盛を中心とした平家落人伝説がしっかり根付いていて、今も地域の文化や祭りとして息づいている。


南伊勢・八ヶ竃の伝説

三重県南伊勢町のリアス海岸沿いには、【かま】の字が付く集落が点在していて、これらは平家の落人(一説に平維盛の子孫)が築いたとされる集落であるという。かつては8つの集落があり、八ヶ竃と呼ばれていた。

しかしながら、安政の大地震(1854年)で赤碕竃が津波で流失し、現在は7つの竃方集落(大方竃・小方竃・栃木竃・新桑竃・相賀竃・道行竃・棚橋竃)が残っている。

平家の落人たちは、漁業権を持てなかったため、海辺の奥地に塩竃を築いて製塩業で生計を立てながら静かに暮らしていたと伝わっている。そのため、集落名に「竃」の字が使われている。現在でも「竃方の塩」として伝統的な塩づくりが復活していて、薪で炊く昔ながらの製法が守られているという。

大方竃にある八ヶ竃八幡神社は、八ヶ竃全体の産土神として祀られていて、江戸時代に宇佐八幡宮を模して建てられたという。

この神社で行われる御証文受け渡し式は、八ヶ竃の共有財産(山の権利など)を記した古文書「御証文」を、各集落の区長が集まって次の当番に引き継ぐ儀式である。この儀式は、数百年以上も続いており、地域の絆を守り続けている。かつては盛大な祭りだったらしいが、今では儀式だけが静かに続いているという。

過疎化が進む中、棚橋竃では2019年から塩づくりを復活させるプロジェクトが始まり、地域の誇りと伝統を守る取り組みが続いている。塩だけではなく、酒米づくりや地域活性化にもつながっている。


あとがき

これらの伝承は、単なる昔話ではなく、地元地域の人々が歴史とともに生きてきた証である。静かな山里に流れる風や川の音に、そんな物語が溶け込んでいるかのようである。

また、これらの伝承は歴史の残響ではなく、戦のない理想郷を求めた人々の記憶であるかも知れない。


【参考資料】

熊野に伝わる平家落人伝説 – 熊野の説話
歴史ロマンを思う/野迫川村
『平維盛の大祭』(奈良県野迫川村)|奈良県町村会
吉野と各時代にまつわる伝承/吉野町公式ホームページ
八ヶ竃八幡神社 – 南伊勢に残る平家落人伝説

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