はじめに
私が、日本武尊【ヤマトタケル】に興味を抱いたのはつい最近のことである。
日本古代史上で最も有名な伝説的英雄であるので名前だけは知っていたが、恥ずかしながら知っているのは学校の教科書レベルで、ヤマトタケルと言われてすぐに浮かぶのが「草薙の剣」ぐらいであった。
最近、古事記と日本書紀を読む機会があり、と言っても私の興味は神社で祀られている神代の神々、つまり日本神話に登場する神々に関するところである。
その延長線上にヤマトタケルが登場してきた理由は、実を言えば私はヤマトタケルを祀っている神社に参拝したことがない。つまり、これから参拝してみたい神社の下調べをしていることになる。今までの反省から、参拝する神社は事前に下調べをしようと思っている。特に御祭神についてはできるだけ詳しく知りたいと思っている。
そのような理由でヤマトタケルについて調べ始めたが、面白いことに日本書紀と古事記ではヤマトタケルについての表現、つまりは人物像が異なるのである。まるで別人物のような印象である。
この違いはヤマトタケルゆかりの神社の紹介よりもずっと面白いと思い本稿を書き始めた。十分に読者に伝わるか心もとないが、改訂を重ねながらでも書き続けていきたいと思っている。
<目次> はじめに 日本最古の史書「記紀」 日本書紀が伝える日本武尊像 古事記が伝える日本武尊像 日本武尊ゆかりの神社 建部大社【滋賀県】 大鳥大社【大阪府】 熱田神宮【愛知県】 酒折宮【山梨県】 三峯神社【埼玉県】 大嶽山那賀都神社【山梨県】 軍刀利神社【山梨県】 |
日本最古の史書「記紀」
天武天皇(大海人皇子、第40代天皇、在位673~686年、飛鳥時代)は、古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことにも力を入れたという。
681年には親王・臣下に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出し、これが後に完成した「日本書記」編纂事業の開始と言われる。
また、稗田阿礼(ひえだのあれ)らに命じて帝皇日継と先代旧辞の詠み習わせをさせ、後にこれが筆録され「古事記」となる。
古事記は712年、日本書紀は720年に成立した。いずれの完成も天武天皇の没後になったが、これらが現存する日本最古の史書とされ、両書を総称して「記紀」と呼ぶ。記紀の内容は、天皇家による支配を正当化する点で共通している。
古事記の特徴
古事記は、天皇家が統治する根拠と正統性を示すために、どちらかというと国内向けに書かれたものとされている。そのため、内容的には神話時代の物語が豊富で、漢字の音訓を使い分けて和文で表現しようとしている。文学的な色彩も濃厚で、国譲りや天孫降臨などの神話の世界に注力するという特徴を有しているとされる。
物語の記載は、短く、首尾一貫しており、天武天皇の意志がかなり反映されている可能性が高いと指摘されている。
時代が進み、朝廷の権力基盤が確立されると神話満載の古事記の役割はなくなり、余り重要なものとみなされなくようだ。
評価が復活したのは江戸中期の有名な国学者、本居宣長が「古事記伝」を著してからだという。
日本書紀の特徴
一方、日本書紀は、日本の正史として年代を追って書く編年体で書かれており、中国や朝鮮の歴史書の内容も参照しているという。
物語は、一貫性を犠牲にして多数の説を併記しているところから、日本書紀が合議制・分担制で編纂された可能性が高い。
日本書紀は長大な漢文で、編纂当時の外国人、すなわち大陸の中国人に向けての書物であったようだ。
それを裏付けるかのように、遣唐使が日本書紀を中国に持参したという話も残されているという。
記紀が伝える日本武尊像
ヤマトタケル(日本武尊、景行天皇12年~41年)は、古墳時代の天皇である景行天皇(垂仁天皇17年~景行天皇60年、第12代天皇)の皇子で、熊襲征討や東国征討を行ったとされる日本古代史上で最も有名な伝説的英雄である。
その英雄の記述が、日本書記と古事記では異なるという。
日本書紀では、天皇賛美の傾向が強く、父の景行天皇に忠実で、天皇からの信頼も厚い日本武尊像が描かれている。まさに英雄である。
一方、古事記では父天皇に疎まれ、肉親の愛に飢える悲劇の主人公として描かれている。
日本書紀が伝える日本武尊像
日本書記の記載には、景行天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起きので、16歳のヤマトタケル(幼名を小碓命(オウスミコト)と称した)を討伐に遣わしたとある。従者には美濃国の弓の名手であった弟彦公が選ばれた。
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は女装して宴に忍び込み、宴たけなわの頃に兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。
熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、景行天皇の賞賛と寵愛を受けたとされる。
東国征討の話についても、日本書記の記載では、東征の将軍に選ばれたことに怖気づいて逃げてしまった兄の大碓命のかわりにヤマトタケルが立候補したという。
兄の大碓命は存命で、意気地のない兄に代わってヤマトタケルが自発的に征討におもむくことになっている。
景行天皇は斧鉞を授け、「形は我が子だが本当は神人である。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大級の賛辞と皇位継承の約束を与えたらしい。
天皇の期待を一身に集めて出発したヤマトタケルは栄光に満ち、伊勢では倭姫命から草薙剣を賜る。ヤマトタケルは、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定した。
蝦夷平定後は尾張に入り、そこでかねてより婚約していた美夜受比売と結婚し、伊勢の神剣である草薙剣を美夜受比売に預けたまま伊吹山の神を素手で討ち取ろうとして出立したという。
伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、ヤマトタケルは「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。
神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのためヤマトタケルは意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めたヤマトタケルだが、病身となり、尾津から能褒野へ到り、その地で30歳の若さで亡くなったという。
父景行天皇は、寝食も進まず、百官に命じてヤマトタケルを能褒野陵に葬るが、ヤマトタケル は白鳥となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。
白鳥の飛行ルートが能褒野を出発し、大和琴弾原(現奈良県御所市)を経て、河内古市(現大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇ったとされる。
以上が日本書記に描かれた日本武尊像であるが、古事記ではかなり 異なったイメージで描かれているという。
話の大筋は同じだが、古事記では、ヤマトタケルは 豪胆な性格ゆえ、父の景行天皇に疎まれるという人間関係から来る悲劇性が濃い。その分、浪漫的要素も強くなっている。
何故、このようにヤマトタケルの性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差があるのか謎である。
独断ではあるが古事記の記述の方が実態に近かったのではないだろうか? 何故なら、古事記の方が物語の記載が首尾一貫しており、天武天皇の意志がかなり反映されている可能性が高いとされているからである。
古事記が伝える日本武尊像
気になる古事記の記載を検証してみよう。父景行天皇の寵妃を奪った兄の大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。そのため小碓命は父天皇に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲健兄弟の討伐を命じられる。
わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き、女性の衣装を授けられる。このとき小碓命は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。
小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。
誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
ヤマトタケルは弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。
その後、ヤマトタケルは、山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、出雲に入り、出雲健と親交を結ぶ。
しかし、ある日、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。こうして各地や国を払い、平らげて、朝廷に参上し復命する。
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇はヤマトタケルに比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。
ヤマトタケルは再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。
倭比売命はヤマトタケルに伊勢神宮にあった神剣、草薙剣と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
ヤマトタケルはまず尾張国造家に入り、美夜受比売と婚約をして東国へ赴く。
相武国(さがむのくに=神奈川県)では国造(地方官)に荒ぶる神がいると欺かれて野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草薙剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。
生還したヤマトタケルは、国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いたので、以後、その地を焼遣(やきづ=焼津)と呼ぶことになったという。
相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして ヤマトタケルの船は進退窮まった。そこで、后の弟橘姫(おとたちばなひめ)が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。
それからヤマトタケルはこの地にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。 弟橘姫は、 ヤマトタケルの思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。
七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。その後ヤマトタケルは、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。
足柄坂の神の白い鹿を蒜(ひる)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。
その後、科野(しなの=長野県)で坂の神を服従させたヤマトタケルは、尾張に入る。
尾張に入ったヤマトタケルは、かねてより婚約していた美夜受比売 と結婚する。
そしてヤマトタケルは、伊勢の神剣である草薙剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山の神を素手で討ち取ろうとして出立する。素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。
倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げ(ことあげ)をし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。
神は大氷雨を降らし、ヤマトタケルは失神する。山を降りたヤマトタケルは、居醒めの清水で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村と進んで行く。
地名起源説話を織り交ぜて、死に際のヤマトタケルの心情が描かれる。そして、能煩野に到ったヤマトタケルは、その地で4首の国偲び歌を詠って亡くなる。
ヤマトタケルの死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。当時は一夫多妻制が当たり前の時代である。
彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠んだ。するとヤマトタケルは八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちや御子たちはその後を追った。
白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
以上のように、記紀の内容で、特に興味を抱かされる点は、景行天皇からみたヤマトタケルに対する評価が、古事記と日本書記で別れることである。
説話は、大筋は同じだが、ヤマトタケル の性格や説話の捉え方や全体のトーンに大きな差がある。
日本書記では、勇猛果敢な英雄として描かれているのに対し、 古事記では父天皇に疎まれ、肉親の愛に飢える悲劇の主人公として描かれている。
冒頭で、 ヤマトタケルは、熊襲征討や東国征討を行ったとされる日本古代史上で最も有名な伝説的英雄であると述べた。しかし、その実態は英雄と一言で呼ぶには気の毒なほどの悲哀を感じてしまう。そう感じるのは私だけではないと思う。
日本武尊ゆかりの神社
建部大社【滋賀県】
建部大社(滋賀県大津市神領)本殿の御祭神は、日本武尊(ヤマトタケル)である。権殿の御祭神は、大己貴命(オオナムチノミコト=大国主神)である。
日本武尊は、熊襲征討や東国征討の後、伊勢の能褒野で他界した。父景行天皇は日本武尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定めてその功名を伝えた(日本書紀伝)。
妃の布多遅比売命(ふたじひめのみこと)と子の稲依別王(いなよりわけのみこ)が住んでいた神崎郡建部の郷(御名代の地)に、景行天皇46年、神勅によって日本武尊の神霊を奉斎したのが建部大社の草創である。
675年、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の建部大社である。
建部大社は、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、特に源頼朝が平家に捕われ、14才で京都から伊豆に流される折に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されているという(1160年3月20日) 。
30年後に、遂に頼朝は源氏再興の宿願が成り、右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くしたという(1190年11月)。
以来、出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬されている。
建部大社 |
大鳥大社【大阪府】
大鳥大社(堺市西区鳳北町)の御祭神は、日本武尊【ヤマトタケル】と大鳥連祖神【おおとりのむらじのおやがみ】である。
日本武尊の武勇は広く知られており、ヤマト王権に抵抗する九州南部の熊襲を平定し、帰途も従わぬ者たちを征伐しながら出雲の国をも平定した。
そして、都に帰ると休む間もなく東国の平定を命ぜられた。東国追討に赴き、様々な災難に遭いながら何とか帰途につく。その途中に伊吹山の荒ぶる神を倒すために山に入り、神の祟りに遭って病に冒された。病身のまま大和を目指したが、都にたどり着くことができずに伊勢国の能褒野(のぼの)で亡くなった。
亡骸はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛び立ち最初に舞い降りた地が大和国の琴引原(ことひきのはら;琴引原白鳥陵)の地であった。
再び飛び立ち、次に舞い降りたのが河内国の古市(古市白鳥陵古墳)の地であったという(日本書紀伝)。
その後は、社伝によると再び天空高く舞い上がり、最後に大鳥の地に舞い降りたという。そこに社を建ててお祀りしたのが大鳥大社の起源となっている。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと伝わる。以上が大鳥大社に伝承されている白鳥伝説である。
一方、大鳥連祖神は、この和泉国に栄えた神別である大中臣と祖先を一にする大鳥氏の部族の先祖をお祀りしたものである。
平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」には天児屋根命【あめのことやねのみこと】を祖先とすると伝えられている。
御祭神の神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬篤く、平清盛、重盛父子が熊野参詣の途中に参拝し、祈願と共に和歌、名馬を奉納したと伝わる。
また、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度に亘って奉仕している。
熱田神宮【愛知県】
熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)の御祭神は、熱田大神とされる。熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことである。
熱田神宮の相殿神は、「五神(ごしん)さま」と呼ばれる、草薙神剣とゆかりの深い神々で、天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命と建稲種命である。五神さまのうち宮簀媛命と建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々である。
熱田神宮の創祀は、草薙神剣の鎮座に始まる。父・景行天皇から信任を授かった日本武尊は、東国征討の帰途、尾張国造の御女である宮簀媛命を妃とし、草薙神剣を宮簀媛命に預けたまま伊吹山の神を討伐に行き、反撃を受けて病に倒れ、三重の能褒野(のぼの)の地で亡くなった。
宮簀媛命は日本武尊の遺志を重んじて、草薙神剣を熱田の地に祀ったのが起源とされる。
以来、伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ、国家鎮護の神宮として特別扱いを受ける。
広い境内の内外には本宮・別宮外43社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間70余度があり、その長い伝統が今日まで続いている。
酒折宮【山梨県】
酒折宮(甲府市酒折)の御祭神は、日本武尊である。山梨県で唯一、記紀(古事記・日本書紀)に記載のある古い神社である。
記紀には、日本武尊が東国征討から帰途に酒折宮に立ち寄り、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が「かかなべて夜には九夜日には十日を」と片歌で答えたことが記載されている。
この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われている。由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言い、自身の身を救った「火打嚢」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けた。
塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体としてお祀りしたのが起源と伝えられている。
この「火打嚢」こそ日本武尊が東国征討に向かわれる前に伊勢の神宮で叔母の倭姫命より「草薙剣」とともに授けられたものである。
古事記では、駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、この「火打嚢」 を用いて難を免れたと伝承されているのものである。
三峯神社【埼玉県】
三峯神社(秩父市三峰)の由緒は古く、三峯神社大縁起によると、日本武尊が伊弉諾尊と伊弉册尊をお祀りしたのが起源とされる。
景行天皇の命により東国平定に遣わされた日本武尊は、甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中に三峯山へ登り、山川が清く美しい様子を眺めた。
その折に、「国生み」・「神生み」の二神を偲び、仮宮を建てお祀りし、この国が永遠に平和であることを祈られた。
この時、日本武尊を道案内したのが狼(山犬)であったとされ、神の使いとして一緒に祀られている。
その後、景行天皇は日本武尊が平定した東国を巡幸された折に三峯山に登られ、三山高く美しく連らなることから「三峯の宮」の称号を授けたと伝わる。
大嶽山那賀都神社【山梨県】
大嶽山那賀都神社(山梨市三富上釜口)の御祭神は、大山祇神(おおやまつみのかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)、高龗神(たかおかみのかみ)の三柱である。
日本武尊が東国征討に向かう道中、甲武信の国境を越えようとしたときに神助を蒙り、神恩奉謝の印として国司ヶ岳の天狗尾根(標高2159m)に佩剣を留め置いて三神を祭ったことが起源とされる。現在、奥宮が鎮座している場所である。
第四十代天武天皇の御代、役行者小角が修験道場として開山したところ、不思議にも昼夜連日鳴動して止まらなかったことから、以来当山を「大嶽山鳴渡ヶ崎」と呼ぶようになったと伝わる。
天平七年に行基が観世音像を刻し、『赤の浦 鳴渡ヶ崎に那留神のみゐづや高く 那賀都とは祈る』との神歌を奉じた時より「那賀都神社」と称したと伝わる。
また、養老元年に最澄、天長八年に空海が相次いで参拝し、清浄ヶ滝・座禅岩、下流川浦に絵書石等の行跡を残したとの伝承もある。
軍刀利神社【山梨県】
軍刀利神社(上野原市棡原)は、三国山の山頂近くに鎮座する、約500年の歴史を有する神社である。
武州桧原、相州佐野川並棡原三郷の総鎮守とされ、野火の災に罹り、現在の地に遷座した。
甲斐国志には、軍茶利夜叉明王社が永正8年に棡原村鎮守とある。軍神として信仰を集め、武門、特に武田信玄や岩殿城主小山田からの厚い崇敬を受けたようだ。
明治時代の明王廃止の際に、御祭神が 武神として広く知られる日本武尊に代わったと伝わる。本殿横には、日本武尊の東国征討に由来する巨大な剣が立っているという。
軍刀利神社は、厄除け、招福・縁結びなどの御神徳がある神社として有名である、また、奥の院には、山梨県指定の大桂が聳え、パワースポットとしても注目されているという。
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【参考資料】
古事記と日本書紀のちがい|なら記紀・万葉【公式サイト】 |
地図と写真でよくわかる! 古事記(山本明著、西東社) |
本居宣長『古事記伝』を読む(神野志隆光著、講談社/文芸) |
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