はじめに
『スカーレット』は、2019年秋から2020年春に放送されたNHKの連続テレビ小説のタイトルである。
スカーレットが色の名前で、日本語では緋色【ひいろ】と表現されることをこのドラマがきっかけで知った。
緋色は朱色に近く、茜色【あかねいろ】、「くすんだ赤」と表現されることもあり、イメージするのがやっかいな色である。このスカーレットという色が信楽焼の陶器色と関係があることもこのドラマで学んだ。緋色に焼き上がるのは釉薬を使わずに焼いたものだというのだ。
ドラマの主人公は、信楽焼の女性陶芸家の草分けで実在の陶芸家・神山清子さんをモデルにしており、信楽焼をはじめ有田焼/伊万里焼、備前焼や越前焼に興味をもったのを覚えている。
このドラマをを観るまでは陶芸には興味がなく、陶器と磁器の区別がつかなくとも気にはならなかった。そんな私であるが、このドラマをきっかけに陶芸の奥深さに心を惹かれるようになった。
<目次> はじめに 陶磁器 陶器 磁器 軟質磁器 硬質磁器 炻器 陶器、炻器と磁器の特徴 日本六古窯とは 陶磁器の産地とその特徴 北海道の焼き物 【001】こぶ志焼 【002】北の嵐山 青森県の焼き物 【003】津軽焼 岩手県の焼き物 【004】小久慈焼 【005】鍛冶丁焼 【006】台焼 【007】藤沢焼 宮城県の焼き物 【008】堤焼 【009】切込焼 【010】台ヶ森焼 秋田県の焼き物 【011】楢岡焼 【012】白岩焼 山形県の焼き物 【013】平清水焼 【014】成島焼 【015】新庄東山焼 【016】上の畑焼 【017】碁点焼 福島県の焼き物 【018】大堀相馬焼 【019】会津本郷焼 【020】会津慶山焼 【021】相馬駒焼 【022】二本松万古焼 【023】田島万古焼 茨城県の焼き物 【024】笠間焼 栃木県の焼き物 【025】益子焼 【026】小砂焼 群馬県の焼き物 【027】月夜野焼 新潟県の焼き物 【028】無名異焼 【029】庵地焼 富山県の焼き物 【030】越中瀬戸焼 【031】小杉焼 石川県の焼き物 【032】九谷焼 【033】大樋焼 福井県の焼き物 【034】越前焼 長野県の焼き物 【035】高遠焼 【036】松代焼 岐阜県の焼き物 【037】美濃焼 【038】渋草焼 【039】小糸焼 【040】山田焼 静岡県の焼き物 【041】志戸呂焼 【042】森山焼 【043】賤機焼 愛知県の焼き物 【044】瀬戸焼 【045】赤津焼 【046】常滑焼 三重県の焼き物 【047】伊賀焼 【048】萬古焼/万古焼 【049】阿漕焼 奈良県の焼き物 【050】赤膚焼 和歌山県の焼き物 【051】瑞芝焼 滋賀県の焼き物 【052】信楽焼 【053】膳所焼 京都府の焼き物 【054】京焼・清水焼 【055】楽焼 【056】朝日焼 兵庫県の焼き物 【057】丹波立杭焼 【058】出石焼 【059】明石焼 【060】赤穂雲火焼 【061】珉平焼 鳥取県の焼き物 【062】因久山焼 【063】牛ノ戸焼 島根県の焼き物 【064】石見焼 【065】布志名焼 【066】出西窯 【067】温泉津焼 岡山県の焼き物 【068】備前焼 【069】虫明焼 【070】酒津焼 【071】羽島焼 広島県の焼き物 【072】宮島焼 山口県の焼き物 【073】萩焼 徳島県の焼き物 【074】大谷焼 香川県の焼き物 【075】理平焼 愛媛県の焼き物 【076】砥部焼 【077】楽山焼 高知県の焼き物 【078】内原野焼 福岡県の焼き物 【079】小石原焼 【080】上野焼 【081】高取焼 【082】一の瀬焼 佐賀県の焼き物 【083】伊万里・有田焼 【084】唐津焼 【085】白石焼 【086】肥前吉田焼 【087】肥前尾崎焼 【088】武雄古唐津焼 長崎県の焼き物 【089】三川内焼 【090】波佐見焼 熊本県の焼き物 【091】小代焼(小岱焼) 【092】内田皿山焼 【093】水の平焼 【094】高浜焼 【095】丸尾焼 【096】高田焼 大分県の焼き物 【097】小鹿田焼 鹿児島県の焼き物 【098】薩摩焼 沖縄県の焼き物 【099】壺屋焼 名前が残る伝説的な焼き物 その他の名前のみが残る焼き物 |
陶磁器
陶磁器は、いわゆる「やきもの」、土を練り固め焼いて作ったものの総称である。陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化学結合してガラス化するケイ酸を主成分とする石英などが含まれる。
成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。
(引用:ウィキペディア)
陶器
陶器とは、カオリナイト(カオリン)やモンモリロナイトを多く含んだ粘土を原料に用い、窯で1100〜1300°Cの温度で焼いたものをいう。
釉薬を用いることもある。透光性はないが、吸水性がある。厚手で重く、叩いたときの音も鈍い。粗陶器と精陶器に大別される。
精陶器は、非常に緻密な組織の純白またはそれに近い素地の陶器を指す。一方、粗陶器は、精陶器に対して粗い未処理の粘土でつくられた陶器を指す。
磁器
磁器とは、高温(1200°C~1300°C程度)で焼成された陶磁器の一種のことであり、半透光性があり、吸水性が殆どない。
また、陶磁器の中では最も硬く、軽く弾くと金属音がする。粘土質物や石英、長石を多く含む陶土を原料として高温で焼成するが、焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分類される。
軟質磁器
軟質磁器(軟磁器)は、磁器化温度が低く(1,200℃前後の低温)、硬さが比較的低いものを指す。素地【きじ】はガラス質を多く含んでおり透明性が高い。
1,200℃前後の低温で焼成でき、透明性に優れるが、焼成中に変形しやすいという欠点がある。セーヴル磁器やボーンチャイナは現在でも広く生産されている軟質磁器である。
硬質磁器
硬質磁器(硬磁器)は、軟質磁器以外の磁器の総称で、一般的な磁器はこれに分類される。 硬質磁器はさらに1,300℃以上で焼成される高火度磁器と、それ以下で焼成される低火度磁器に分類される場合もある。一般的な磁器の多くは、低火度磁器である。高火度磁器の例としては、ベルリン磁器などがある。
炻器
炻器【せっき】とは、陶磁器の一種で、陶器と磁器の中間的な性質を持つ焼き物であるため半磁器とも呼ばれる。
炻器は、世界各地にあり(英語でstone wareという)、普通施釉せず、また絵付けも行なわれないことが多いかわりに、地肌の風合いが賞玩される。浮彫り、貼花(レリーフ)等の装飾が施されることも多い。
陶器、炻器と磁器の特徴
陶器 | 炻器 | 磁器 | |
使用陶土の粒子径 | 粗い | 細かい | 非常に細かい |
製品の強度 | 弱い | 陶器と磁器の中間 | 強い |
吸水性 | 高い | 低い | なし |
叩いたときの音 | 鈍い音 | 金属的な高い音 | 金属的な高い音 |
日本六古窯とは
鎌倉時代以前より継続している古い窯の中で、後世大きな産地となった代表的な六つの窯、瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波・備前を指す用語である。古陶磁研究科の小山冨士夫氏によって昭和23年頃に命名されたものとされている。
陶磁器の産地とその特徴
都道府県別に日本各地の陶磁器の産地とその特徴について下記にまとめてみた。
北海道の焼き物
こぶ志焼【陶器】
産地 | 北海道岩見沢市 |
歴史 | 1946年に初代・三秋【みあき】が開窯したと言われている。 北国に春の到来を告げる辛夷【こぶし】が、初窯を焚いた時に咲いていたことから「こぶ志窯」と名付けられ、「こぶ志焼」として親しまれている。 |
特徴 | 道内の素材を活用しながら、こぶ志窯の礎となった海鼠釉【なまこゆう】の器をはじめ、食卓を彩る器の制作が中心。 |
北の嵐山【陶器】
産地 | 北海道旭川市旭岡一帯 |
歴史 | ー |
特徴 | 雪や氷などをイメージした北国らしい作風 |
青森県の焼き物
津軽焼【陶器】
産地 | 青森県弘前市 |
歴史 | 江戸時代に、江戸より窯士久兵衛らを招聘し、寺町と清水村に窯を築いたのがはじまりとされる。その窯場の場所からそれぞれ、平清水焼、大沢焼、下川原焼、悪戸焼と呼ばれたが、これらを総称して津軽焼という。 |
特徴 | 鳩笛などの玩具を作り続けている下川原焼のみが存続している。現代の津軽焼は1936年になって再興され、りんご木灰利用のナマコ模様のうわぐすりが特徴となっている。 |
岩手県の焼き物
小久慈焼【陶器】
産地 | 岩手県久慈市 |
歴史 | ー |
特徴 | 小久慈焼【こくじやき】の特徴は、糠白釉や飴釉、掛分釉だけを流し掛けただけの素朴な味わいである。久慈の粘土は鉄分が少ないため、白色がきれいに出るという。この粘土を元に、わら灰を使った暖か味のある白釉、砂鉄を使ったアメ紬がある。食器や日用雑器なども焼いているが、小久慈焼の代表的な作品は注ぎ口の長い片口である。「暮らしの器」として市内のどの家庭にも一つは置いてあると言われるほど、地元に親しまれているという。 |
鍛冶丁焼【陶器】
産地 | 岩手県花巻市 |
歴史 | 文政年間(1818年~1831年)に、古館伊織が市内の鍛冶町にて窯場を開いたのが始まりとされる。明治になって絶えたが、1947年に益子焼を修行した阿部勝元氏が伝統的な手法を蘇らせて再興した。 |
特徴 | 轆轤による製法、伝統的な登り窯を使った手作りの味にあるとされる。青緑や乳白色の釉薬は、一見奇抜に見えるが非常に落ち着きがある。主に茶碗や酒器、花瓶などの日用雑器が焼かれている。 |
台焼【陶磁器】
産地 | 岩手県花巻温泉郷・台温泉近辺 |
歴史 | ー |
特徴 | 台焼【だいやき】の特徴は、「糖青磁釉」と呼ばれる薄緑の色合いである。やや鈍色の白い器肌であり、それに染付や釉薬を用いて意匠を作る。特に染付磁器の作品には菊花、唐草模様などがある。近年は陶器が主流であり、主に海鼠釉【なまこゆう】で彩りを添える。華美な作りでなく、民芸品らしい趣があると好評である。 |
藤沢焼【陶器】
産地 | 岩手県一関市 |
歴史 | 中世に始まったとされる穴窯で焼成される焼締陶器である。 |
特徴 | 穴窯で数日もアカマツを焚く焼き方である。成型したものを上釉を使わないで直接アカマツを燃料に焼成する。焚いている間にアカマツの灰が飛んで作品に付着し、それが高温で溶け、焼き上りは緑の釉が被って上釉をかけたようになり、素朴なぬくもりを感じさせる陶器となるらしい。 |
宮城県の焼き物
堤焼【陶器】
産地 | 宮城県仙台市 |
歴史 | 江戸時代中期に、江戸から今戸焼の陶工・上村万右衛門を招き、日用品を焼かせたのが始まりとされる。堤町(現仙台市青葉区)一帯に窯場があったことから、堤焼という名がついたとされる。今日では江戸末期から続く乾馬窯1つが堤焼の歴史を守り続けている。 |
特徴 | 堤焼の特徴は、野趣溢れる釉薬にあり、特に黒と白の海鼠釉【なまこゆう】を同時に掛け流す「流し掛け海鼠釉」は堤焼独自の技術である。二重に流し掛けることによってふたつの釉薬が化学反応を起こし、表面に濃淡の斑が発色するために味わいのある斑紋、流紋が生じるという。 |
切込焼【陶磁器】
産地 | 宮城県加美町 |
歴史 | 切込焼の草創は不明。明治10年代に廃窯になり、大正9年(1920年)に再興を試みるが、失敗。1990年に旧宮崎町(現加美町)が町興しの一環事業として、伝統的な切込焼の復興が行われるようになった。 |
特徴 | 伊万里焼の技術を導入した陶磁器 |
台ヶ森焼【陶磁器】
産地 | 宮城県 |
歴史 | 1976年、初代窯元・安部勝斎はこの地に昇炎式・横炎式・倒炎式の窯を築き、台ヶ森焼周辺で産出される土を使って現在の台ヶ森焼を誕生させたと言われている。江戸時代までは、火山灰質の土も利用し、陶器が作られていたと伝わる。 |
特徴 | 台ヶ森焼は、台ヶ森周辺から取れる土を使い、そこで造られた。産出される土には、亜炭、鉄、銅など様々な鉱物が含まれ、それにより複雑な色合いが生まれるとされている。台ヶ森の周辺の地質は、付近で第四紀に生じた火山活動の影響で凝灰岩などが分布し、銅や鉄を多く含む傾向にあること、石灰化が進んでいない亜炭が豊富に存在するという特徴がある。こうした地質条件が、陶器の材料となる粘土に大きな影響を与えたと考えられている。 |
秋田県の焼き物
楢岡焼【陶器】
産地 | 秋田県大仙市南外地域 |
歴史 | ー |
特徴 | 楢岡焼【ならおかやき】は、独特の群青色の海鼠釉が鮮やかな色合いを出すことで知られる。楢岡焼創業時の製品はオリーブ色の茶器類が多く、大堀相馬焼の技術で製作され、駒の絵が描かれた小坏や「相馬焼」と墨書きされた小坏がある。その後、製品は茶器などの高級品から日用雑器へと方向を変え、明治中期以降に現在まで続く海鼠釉の製品が主体となった。技術改良重ね、今日の美しい青味を持つ焼き物が完成した。それに伴い、甕【かめ】などの大物から食器などの小物が中心となっていき、今日ではコーヒーカップや小鉢といったものが中心となっている。 |
白岩焼【陶器】
産地 | 秋田県仙北市角館町白岩 |
歴史 | 秋田県最古の窯元。江戸期の窯元・渡邊勘左衛門の末裔である渡邊すなお氏が白岩焼の復興を志し、1975年に白岩で和兵衛窯を築窯することで白岩焼復興を果した。そして夫の渡邊敏明氏による四室の登り窯が1993年に完成して、現在に至っている。 |
特徴 | 重ね掛けされた褐色の鉄釉と、青みの強い藁灰釉(海鼠釉)の対比に特徴がある。白岩の土は、陶土適正検査で陶土としての質の良さが明らかになっている。 |
山形県の焼き物
平清水焼【陶磁器】
産地 | 山形県山形市平清水 |
歴史 | ー |
特徴 | 平清水焼【ひらしみずやき】は、千歳山の原土を用い、麓には陶芸の里もあることから、別名・千歳焼とも呼ばれる。現在、一般に有名なのは青龍窯(梨青磁)の「梨青瓷」と「残雪」である。梨青瓷は、地元の土に含有されている硫化鉄が、還元炎焼成によって気化、釉薬の中に溶解すると梨の肌のような青白色の斑点が生じ、独特の風合いを醸し出している。残雪は純白の白釉を掛けることによって、黒色の斑点が浮き上がることで名付けられた。これらは原土に含まれる鉄分がにじみ出た梨青磁である。他にもうすぐもりの味を出した辰砂釉、撫青瓷の平吉窯、白衣と称する化粧掛けや白砂が得意な天沢窯、民芸陶器の七右エ門窯など個性的な窯場があり、窯ごとに様々な創意工夫を凝らされている。 |
成島焼【陶器】
産地 | 山形県米沢市 |
歴史 | 成島焼【なるしまやき】は、米沢藩主の上杉鷹山が家来の相良清左衛門に相馬焼の技法を学ばせて開天明元年(1891年)窯した。成島焼は、藩の御用窯として栄え、藩政を支えるほど潤いを見せたが、近代に入り衰微し、大正年間には廃窯した。現在、和久井富二夫と水野哲の両名がそれぞれ長井市と米沢市で成島焼を復興させている。 |
特徴 | 成島焼の特徴は、絢爛豪華な絵付を用いず、海鼠釉、黒釉と窯の焼成によって生じる窯変だけで作品を仕上げている点である。 |
新庄東山焼【陶器】
産地 | 山形県新庄市東部の丘陵地帯(東山) |
歴史 | 新庄東山焼は、天保12年(1841年)に新庄戸沢藩の御用窯として開窯したという。開祖は越後出身の陶工・涌井弥兵衛であると伝わる。 |
特徴 | 東山集落の地質は厚い粘土層で覆われいて、敷地内の豊富な陶土と、出羽の雪のかげりの色と言われる「なまこ釉」をはじめ種々の家伝の釉薬を用いて製作されている。新庄東山焼の特徴は、陶土の持つよく焼き締まる特性が生かされた、丈夫で割れにくくて、使うほどに風合いが増すというものである。食器から花器、茶道具など幅広く製作している他、地元の要請を受けて土管やレンガなどの農業用製品や、建設用タイルなどの工業用製品も製造している。 |
上の畑焼【磁器】
産地 | 山形県 |
歴史 | 県内最古の磁器の窯。上の畑焼は、江戸末期に東根の長瀞藩が地元の陶石を使った作陶を産業にしようと、伊万里の流れを汲む陶工を大阪から招いて開いた窯であったが、財政難でわずか10年ほどで廃窯してしまったという。この窯を復興させたのが伊藤瓢堂氏である。 |
特徴 | 上の畑焼を代表する絵付け(紋様)は、「三多紋」と呼ばれるもので、多福・多寿・子孫繁栄の縁起模様(桃・柘榴【ざくろ】・仏手柑【ぶっしゅかん】)が藍色で白地に描かれている。最近では金や赤を追加したり、銀山の銀を掘った廃鉱から出る鉄錆を用いた焼き物を製作するなど、現代の生活感覚に合ったさまざまな色を出している。 |
碁点焼【陶器】
産地 | 山形県村山市碁点 |
歴史 | ー |
特徴 | 碁点焼【ごてんやき】の特徴的な作品は、独特の青みがかった作品「藍」と、いぶし銀のような光沢を持った鉄釉「銀砂」の2つである。独自の製法・調合によって生み出される色合いは、全国でも稀な特色として知られる。 |
福島県の焼き物
大堀相馬焼【陶器】
産地 | 福島県相馬地方・大堀地区(双葉郡浪江町) |
歴史 | 大堀相馬焼は江戸時代、中村藩士の半谷休閑が大堀で陶土を発見し、下男の左馬に命じて器を焼き始めたのが起源とされている。 その後相馬藩の保護により、100以上の窯元が並び、東北地方で最大の産地となった。 |
特徴 | 大堀相馬焼【おおぼりそうまやき】は、福島県を代表する陶器の一つで、略称として大堀焼ともいう。特徴は、保温性に優れた二重焼、青ひび(表面にランダムに現れる)、駒の絵(「走り駒」の意匠)などを有していることとされる。青磁釉(青みがあり透明感のある釉薬)を用いた陶器が有名である。窯元ごとに個性に富んだ作品も生まれている。 |
会津本郷焼【陶磁器】
産地 | 福島県旧会津本郷町周辺 |
歴史 | 16世紀の終わり頃、薩摩の瓦工を呼び、鶴ヶ城の屋根瓦を作らせたのが起源とされる。その後瀬戸の陶工・水野源左衛門を呼び技術を発展させ、陶工・佐藤伊兵衛が現在の会津本郷焼の基礎を築いたと伝わる。陶器だけでなく、良質な陶石が採れることから磁器作りも行われている。明治時代から電線の絶縁の為に用いられる碍子【がいし】の生産も行っており、産地としての柱となってきた。 |
特徴 | 会津本郷焼の窯元は、現在、会津美里町と会津若松市にある。使用する大久保陶石は、風雨に1年以上さらした上で砕き、粘土として練り上げるなど手間をかける。厚手で丈夫な仕上がりで知られる。色合いは用途により様々である。会津本郷焼で使われる釉薬に「飴釉」がある。飴釉は文字通り飴色で光沢を持っている。この飴釉を使った代表的な陶器が鰊鉢【にしんはち】で古くからニシンの山椒漬けに使われてきた。 |
会津慶山焼【陶器】
産地 | 福島県会津若松市 |
歴史 | 会津慶山焼【あいづけいざんやき】は、文禄元年(1592年)、当時の藩主であった蒲生氏郷が、若松城の前身である黒川城に屋根瓦をふく際に、唐津から陶工を招いて焼かせたのが始まりといわれる。近代に入り、慶山焼は瓦、れんが、土管などの大がかりな資材を焼く一方で、ねり鉢や丼鉢、植木鉢、茶器など日常生活に欠かせない焼き物全般を制作していたが、戦後まもなくに途絶えた。現在の会津慶山焼は、窯元「香山」(現「やま陶」)が1974年に復興させたものである。 |
特徴 | 復興後の会津慶山焼の作品は、湯呑みや茶器・花器などである。作風は昔ながらの手ひねりや灰釉などの伝統的な製法・技法を堅持している。しかしながら、ビールジョッキやコーヒーカップなど感覚の新しい作品も数多く作られており、観光地のために土産物としての需要も多い。 |
相馬駒焼【陶器】
産地 | 福島県相馬地方 |
歴史 | 慶安元年(1648年)、京都の仁清のもとで修行した陶芸家・田代源吾右衛門(のちに清治右衛門と改名)が旧相馬郡中村(現相馬市)に開窯したのが始まりとされる。以後、相馬藩の御用窯として手厚く保護された。窯は福島県指定重要有形民俗文化財 田代駒焼登窯として一般公開されている。 |
特徴 | 相馬駒焼【そうまこまやき】は、相馬焼、駒焼き、田代駒焼ともいう。茶器類が多く、独特のひび焼と走り駒の絵が特徴である。 |
二本松万古焼【陶磁器】
産地 | 福島県二本松市 |
歴史 | 嘉永6年(1853年)、二本松藩主が京都から陶工を呼び寄せ、下級武士の副業として教えたのが製作の開始と伝えられる。現在、1窯が残るのみである。 |
特徴 | 地元の粘土を使い、独自の製法でつくられる。焼き上がりの色あいと指でつけた梅花模様に特徴がある。 |
田島万古焼【陶磁器】
産地 | 福島県南会津町 |
歴史 | 田島万古焼【たじまばんこやき】は、弘化2年(1845年)に二本松から陶工を招き窯を築かせて、鴫山万古【しぎやまばんこ】と名づけたのが始まりと言われている。戦争などの影響によって一度途絶えたが、1973年に田島万古焼復活組合が発足し、田島万古焼勝三窯として再び生産されるようになった。 |
特徴 | 全国でも珍しい古来の手ひねり万古として、指紋を活かした力強さの中にぬくもりを感じる陶器である。釉薬を使わずに高温で焼き上げるため、明るい素焼きの色が出るという。縁起を担ぎ、蛙(無事帰る)とサイコロ(良い目が出る)のモチーフが多い。 |
茨城県の焼き物
笠間焼【陶器】
産地 | 茨城県笠間市周辺 |
歴史 | 笠間焼【かさまやき】は、江戸時代中期の安永年間(1770年代)に始められたという。箱田村の久野半右衛門道延が近江の陶工を招き、陶器を作り始めた箱田焼と、山口勘兵衛が始めた宍戸焼が笠間焼の源流と言われている。江戸に近かったため、大量生産を行い規模を拡大してきた。 |
特徴 | 関東ローム層から出土する笠間粘土によって作られる。笠間粘土は笠間地区から筑波山にかけて産出する花崗岩(御影石)が風化堆積して生じた粘土である。笠間粘土は、粘りが強く、成形しやすいだけでなく、鉄を含むため焼成後には有色となる特徴がある。焼き上がりは強度が高く、丈夫で勝手がよいという。笠間焼は、「特徴がないのが特徴」と言われているが、これは戦後、先人の仕事を尊重しつつも伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて、各地から若い陶芸家たちが集まったためである。現在では300人に近い陶芸作家が窯業を営み、安価で実用的な水瓶や徳利から、芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物を焼いている。笠間焼はイノベーションの成功例として高く評価されている。笠間は、関東地方では益子と並ぶ大きな窯業【ようぎょう】産地として知られる。 |
栃木県の焼き物
益子焼【陶器】
産地 | 栃木県益子町周辺(芳賀郡益子町、真岡市、市貝町、茂木町) |
歴史 | 益子焼【ましこやき】は、江戸時代末期、嘉永年間(1853年頃)に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことが始まりとされる。主に鉢や壷などを生産していたが、1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器や茶器などの民芸品が作られるようになった。濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが日本全国に知られるようになった。1959年には、加守田章二が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられるようになった。 |
特徴 | 益子焼の陶土は、砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は、主に水がめ、火鉢、壺などの日用品が製作された。益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色を出す鉄釉である。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器や茶器などの民芸品が作られるようになった。濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが日本全国に知られるようになった。信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。 |
小砂焼【陶器】
産地 | 栃木県那珂川町 |
歴史 | 小砂焼【こいさごやき】は、江戸時代末期、小砂の地で陶土が見つかり、作陶が始まったという。初代半平は越中富山から来た焼き物職人で、志鳥村で作陶をしていたが、小砂村の庄屋藤田家に招かれ、登り窯を築いた。窯跡地には碑が設置されている。 |
特徴 | 独特の金色を帯びた黄色の金結晶やほんのりとした桃色の辰砂が有名で、素朴な中にも優雅さを感じさせると評価される。 |
群馬県の焼き物
月夜野焼【磁器】
産地 | 群馬県 |
歴史 | 陶土発見のきっかけは、昭和50年(1975年)1月に群馬県利根郡月夜野町(現みなかみ町)で上越新幹線工事現場から排出された削除土が磁器質流紋岩であり、陶土になることを発見したことに始まる。これら陶土及び陶磁石を使い、本格的製土法によって半磁器陶土を完成して『月夜野陶土』と命名したという。 |
特徴 | 月夜野焼【つきよのやき】は、『月夜野陶土』を用いて作陶し、独自の釉薬で焼成した焼き物である。『月夜野陶土』は、月夜野町を中心に大量に分布し、奥利根下には優れた磁器質陶石の存在も確認されている。 |
新潟県の焼き物
無名異焼【陶器】
産地 | 新潟県佐渡市 |
歴史 | 文政2年(1819年)に、伊藤甚平が佐渡金山の坑内で産する無名異を用いて楽焼を製造したのに始まり、安政4年(1857年)に伊藤富太郎が本焼を始めたと伝わる。明治時代に入ると、三浦常山や伊藤赤水らの手によって、高温で硬質に焼成する現在の無名異焼が完成したという。 |
特徴 | 技術的には、水簸(水を使った土の精製作業)を行ってからさらに絹目に通すため、他の陶土より粒子が細かく収縮率が大きいのが特徴である。また、成形後は生の内に石や鉄へらなどで磨いて光沢を出し、焼成後には佐渡金山の精錬滓でさらに磨いて、独特の光沢を出す。完成した焼物は堅く焼き締まっているために金属音を発する特徴をもち、その色合いは使用するほどに光沢を増し、独特の落ち着いた趣きとなるという。無名異焼は佐渡で産出する陶土と釉薬原料を使用することが原則であるが、技術の進歩や陶工たちの長年の工夫により、近年は釉薬原料や造形が多様となり、窯元ごとに特徴の異なる製品が作られるようになった。 |
庵地焼【陶器】
産地 | 新潟県阿賀野市保田、通称庵地 |
歴史 | 元々は江戸時代から続く保田焼が前身で、同地には昭和の初期、村山、旗野、田村、井上の諸窯があったが、旗野窯を除く各窯は第二次世界大戦を前後に絶えた。旗野窯は、1878年(明治11年)に村松焼(現五泉市)で修業した旗野直太郎が起こした窯で、甕、鉢、皿、碗、徳利、片口などの食器のほか、湯たんぽ、火鉢、植木鉢などの雑器を焼いた。旗野嘉山(嘉一)が継承し、3代目の旗野義山(義夫)が研鑽努力し民芸窯としての地歩を固めた。義山没後は実子の三姉妹が継いだ。 |
特徴 | 庵地焼【あんちやき】は、「庵地の黒」と称されるほどに黒色の釉薬に特徴がある。 |
富山県の焼き物
越中瀬戸焼【陶器】
産地 | 富山県立山町上末・瀬戸 |
歴史 | 上末は、平安時代初めから須恵器を焼いていた有数の古窯であったという。越中瀬戸焼【えっちゅうせとやき】は、桃山時代から文禄・慶長年間に前田利家の保護を受けた尾張瀬戸の彦右エ門・小二郎・孫市・市右エ門・長八らが上末で窯を開き、新たな瀬戸村が誕生したことから始まるという。大正時代に入り、多くの窯は瓦業に転じ、陶器製業は廃れた。しかし、昭和に入り、地元有志によって瀬戸焼保存会が設立され、陶器製産が復活した。 |
特徴 | 鉄分が少なく粒が細かい地元の「白土」を用いること、植物灰などを原料とする釉薬を用いた多彩で大胆な施釉が特徴であるという。 |
小杉焼【陶器】
産地 | 富山県射水市小杉地区 |
歴史 | 小杉焼【こすぎやき】は、文化13年(1816年)頃から明治30年(1897年)頃までの約80年間にわたって、初代高畑与右衛門以来、4代にわたって焼かれた京焼系相馬焼風の焼き物である。4代目が明治21年(1888年)に窯を閉じたが、昭和期に入り、小杉焼復興運動が興り、片口窯と横堀窯などができた。現在では、陶芸家池上栄一が「小杉焼栄一窯」として制作活動を続けているという。 |
特徴 | 小杉焼の釉薬は銅青磁釉と飴釉による色合いが特徴で、特に「小杉青磁」と呼ばれる緑釉の一種は淡い緑色の発色をしており、緑釉の代表である織部釉とは一味違う色合いを呈する。 |
石川県の焼き物
九谷焼【磁器】
産地 | 石川県金沢市・小松市・加賀市・能美市 |
歴史 | 17世紀の中頃、加賀の支藩である大聖寺藩の藩主、前田利治が錬金職人の後藤才次郎に命じ、肥前有田の地で製陶の技術を学ばせた。才次郎の帰郷後に九谷の地で窯を開き、磁器を作り始めたのが九谷焼の起源である。しかし、50年程で窯は閉じられ、完全に生産は途絶えたという。そして80年程経った後に復興され、職人達の尽力により現在まで繁栄している。 |
特徴 | 九谷焼は、通称「九谷五彩」と呼ばれる色鮮やかな上絵付け「五彩手」が特徴の色絵の磁器である。主に緑、黄、赤、紫、紺青の和絵具で描かれ、豪快な構図から精緻で細かい絵まで様々な技法がある。「絵付けなくして九谷無し」と言われるほど、絵付けで人気を博す磁器である。 |
大樋焼【楽焼の脇窯】
産地 | 石川県金沢市 |
歴史 | 楽焼は350年の歴史と伝統をもつが、大樋焼【おおひやき】は、その楽焼の脇窯である。大樋村(現金沢市大樋町)に楽焼の土を見出したことで大樋焼と称され、以後は前田家の御用窯として栄えた。明治時代になると、加賀藩の保護が途絶え一時的に衰退したが、その後、復興した。 |
特徴 | 大樋焼の特徴は、轆轤は使わず手で捻りながら成形し、ひとつひとつ箆で削りながら造り上げていく。小さな窯に釉薬を施した作品を入れ、短期間に温度を上げた後、引き出して急冷する。この温度差の急な焼成は楽焼と大樋焼だけに見られる手法である。また独特の飴色は、初代長左衛門が京都より金沢に出向く際に楽家より与えられたとされており、雪国にふさわしい暖かい味わいが特徴である。 |
福井県の焼き物
越前焼【炻器】
産地 | 福井県内 |
歴史 | 日本六古窯の一つ。平安時代末期には須恵器を焼いていた地域であったが、常滑の技術を導入して焼き締め陶を作り始めたのが、越前焼のはじまりと伝わる。硬くて丈夫な越前焼は、北海道南部から日本海沿岸地域などに船で運ばれ、水や穀物の貯蔵、藍染め、銭瓶などに利用されたという。室町時代以降には、お歯黒壺(既婚女性が歯を黒くするのに用いた塗り物の容器)が盛んに作られた。この壺は風流人によって一輪挿しなどにも使われたという。しかし、明治時代末期から大正時代にかけて窯元の廃業が相次ぎ、伝統が途絶えかけた。近年になって再興の機運が高まり、多くの陶芸家が新しい歴史を刻み始めたという。 |
特徴 | 炻器【せっき】とは、陶器と磁器の中間的性質を持つ半磁器のことをいう。特徴は、鉄分の多い土を使い、肌色は黒灰色から赤褐色まで変化し、黄緑色の自然釉が流れ落ちる美しさ。基本は古くからの焼き締めが中心。締焼きともいい、釉薬をかけず高温で焼成した陶器のことである。高温焼成で茶褐色に焼き締まった越前焼は、上薬を使わなくても水を通さない丈夫な焼き物という特長から、主に甕やすり鉢などの日用雑器を中心に生産されていたが、衰退していた時期がある。しかし、越前陶芸村が建設されて以降、多くの陶工が訪れるようになり、今日では若い感覚の作品も多く見受けられるようになったという。 |
長野県の焼き物
高遠焼【陶器】
産地 | 長野県高遠町(現伊那市) |
歴史 | 高遠焼は、文化9年(1812年)高遠城に水を引く土管を作るために美濃から陶芸家を呼んで作陶が始まったのが起源とされる。昭和初期に衰退したが、唐木米之助が昭和50年(1975年)に白山登窯を構え、その技術を受け継いだ。 |
特徴 | 高遠焼の特徴は赤土を基調として、白と緑など2種類の釉薬を重ねる二重掛けにあるという。 |
松代焼【陶器】
産地 | 長野県長野市松代地区 |
歴史 | 松代焼【まつしろやき】は、松代藩の御用窯として栄えた。唐津で修行を積んだ陶工・嘉平次が寛政の初め頃に開窯し、藍甕を焼いたのが始まりとされる。現在の松代焼は、昭和47年(1972年)に復興されたものであり、当時から残されていた陶器の欠片と資料を参考に再生している。 |
特徴 | 松代焼の特徴は、青味を帯びた器肌と豪快に流された青緑色の釉薬にある。器肌が青味を帯びるのは、陶土に鉄分を持っているためである。緑色の釉薬は松代焼独特のもので、銅を混ぜることによって陶土と反応させ、独特の光沢が生まれるといわれる。 |
岐阜県の焼き物
美濃焼【陶磁器】
産地 | 岐阜県旧美濃国の東濃地方(多治見市、瑞浪市、恵那市、土岐市、可児市、可児郡御嵩町) |
歴史 | 5世紀頃に作られていた須恵器をルーツとしている。10世紀頃には白瓷【しらし】という灰釉の陶器を生産し、知名度が上昇した。 16世紀には織田信長の経済政策によって職人の数が増え窯の規模も増大し、一大産地となった。 |
特徴 | 日本で生産される陶磁器の50%以上のシェアを占めており、日本の代表的な焼物とされている。東濃地方は、日本最大の陶磁器生産拠点であり、中でも土岐市が陶磁器生産量の日本一の街である。桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、美濃桃山陶とも呼ばれる。中でも武将でもあり茶人でもあった吉田織部が創意工夫を凝らしたとされる「織部好み」は有名である。志野茶碗の卯花墻【うのはながき】は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の一つである。伝統的工芸品として15種類が指定されている。 |
渋草焼【陶磁器】
産地 | 岐阜県高山市 |
歴史 | 渋草焼【しぶくさやき】は、天保11年(1840年)に飛騨郡代豊田友直が陶磁器を自給自足すべく、官民共同の窯場を作ったのが始まりとされている。原料には地元の渋草陶石が用いられている。瀬戸や九谷の磁器産地から陶工、絵師を招聘し、瀬戸や九谷の特徴を織り交ぜながら、飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる独自の磁器を生み出した。江戸幕府崩壊に伴い、一切の援助が打ち切られたために衰退した。しかし、明治11年(1878年)に窯元を復活させた。 |
特徴 | 現在、芳国舎と柳造窯の2か所で渋草焼が製造されている。前者は昔ながらの手書きの絵付磁器を焼いているという。 |
小糸焼【陶器】
産地 | 岐阜県高山市 |
歴史 | 小糸焼【こいとやき】の名の由来は、高山城下西方の地名、小糸坂である。寛永年間(1624~1645年)の開窯で、高山城主の金森重頼が京都の陶工・竹屋源十郎を招いたのが始まりとされる。重頼の兄、金森重近(宗和)が高名な茶人でもあったため、彼の指導の下で茶器を焼かせた(第一期小糸焼)。茶陶として名を馳せたが、金森家が出羽国に転封されたために僅か20年に廃窯となった。その後、天保8年(1837年)、高山の豪商、細江嘉助と平田忠右衛門により小糸坂の地に復興したが、わずか数年で廃窯した(第二期小糸焼)。現在の小糸焼は、戦後に長倉三朗と靖邦の親子が綿密な発掘調査の下に復活させたものである。 |
特徴 | 小糸焼は独特の作風で知られているが、特に、伊羅保釉【いらばゆう】を発展させた、小糸焼独自の「青伊羅保」と称される、渋く深みのあるコバルトブルーの釉薬が代表的である。 |
山田焼【陶器】
産地 | 岐阜県高山市 |
歴史 | 創始者は稲垣藤四郎といわれる。また、材料の粘土は地元の水田の土を用いていたという。殖産産業として郡代から推奨されたため、明治時代には窯業の技術を応用して土管、煉瓦、瓦などを焼き、大いに繁栄し、現在に至るまで窯の火が絶えたことはない。山田焼は、飛騨の焼き物の中で最も長い歴史を持つという。 |
特徴 | 渋草焼や小糸焼が藩主や風流人に好まれたのに対し、山田焼【やまだやき】は農民や町人のために焼かれた生活雑器である。現在は、小林陶舎一軒のみが民芸調の陶器を焼いているが、華美でない、素朴な味わいの深い意匠に人気があるという。 |
静岡県の焼き物
志戸呂焼【陶器】
産地 | 静岡県島田市金谷 |
歴史 | 志戸呂焼【しとろやき】の歴史は古く、室町時代に遡るという。美濃の陶工が焼き始めたのが最初とされ、一帯は古くから良質の陶土産地として知られていた。志戸呂焼の名が一躍有名になったのは、時の茶人・小堀政一(遠州)が目を付け、遠州七窯の一つに数えられるようになってからである。 |
特徴 | 現在も茶壺が中心に制作され、赤みがかった器に黄色釉と黒釉を掛け、独特の侘びた味わいがある。また、非常に堅牢で湿気を寄せ付けないのも、茶器に好まれる理由である。名器と呼ばれる壺の裏には「祖母懐」や「姥懐」の刻銘がある。 |
森山焼【陶器】
産地 | 静岡県周智郡森町 |
歴史 | 森山焼【もりやまやき】は、志戸呂焼の流れを汲む陶器で、明治42年(1909年)の開窯という。中村秀吉が志戸呂の陶工・鈴木静邨を招き、主に日用食器、茶器、酒器、花器などを焼いたのが始まりとされる。 |
特徴 | 現在は、中村陶房、静邨陶房、晴山陶房、田米陶房の4軒の窯元があり、それぞれ個性的な意匠を見せる。中でも静邨陶房(鈴木龍)で焼かれる真っ赤な釉薬を使った赤焼がよく知られる。また、晴山陶房(松井晴山)は、森山焼独特の虎布釉【とらふゆう】を継承しているという。 |
賤機焼【陶器】
産地 | 静岡県静岡市 |
歴史 | 賤機焼【しずはたやき】は、江戸初期に太田太郎衛門によって開陶、徳川家康より徳川家の御用窯として繁栄した。しかし、安部川の洪水によって窯場が流失して以降は衰退した。明治以降に県が磁場産業再興に乗り出し、青島庄助が再興させた。二代目五郎が常滑の技術を、三代目秋果が南蛮手という焼締めの技術を採り入れるなど尽力し、民窯として復活、大戦中の中断を挟んで現在に至っている。 |
特徴 | 賤機焼は原料の赤土に鉄分を多く含むために素地は赤茶色である。そしてその赤を更に引き立てるために、辰砂や釉裏紅といった技術を用いて、鮮やかな色彩を出す。また、釉薬を一切使わず、焼き締めによる窯変を意匠とした南蛮手も独自の技術であり、表面がゴツゴツしていて、肌合いはかなり荒い。 |
愛知県の焼き物
瀬戸焼【陶磁器】
産地 | 愛知県瀬戸市とその周辺 |
歴史 | 日本六古窯の一つ。瀬戸市の東南部にある猿投山の山麓が発祥の地とされる。9世紀の前半、猿投窯【さなげよう】で植物の灰を釉薬にした灰釉【かいゆう】陶器が新しく焼かれるようになったと伝わる。当時の六古窯のなかで、器の強度を高めるために釉薬をかけて焼くという技法を採用していたのは瀬戸焼だけで、当時は瓷器【しき】と呼ばれ、京の都や有力寺院で使用されたと伝わる。明治時代には、1873年開催のウイーン万国博覧会での出展をはじめ、フィラデルフィアやパリ開催の万国博覧会にも積極的に出品して、高い評価を得た。これらを契機にして海外からの注文が多くなり、世界に瀬戸の名が広まったとされる。陶磁器のことを「瀬戸もの」と呼ぶのは、瀬戸焼が一般名詞化した証左である。戦後は、精巧なノベルティ(陶磁器製の置物や装飾品など)が、セト・ノベルティとして注目され、日本のノベルティ輸出の大部分を瀬戸陶磁器が占めた。 |
特徴 | 瀬戸で産出される、木節粘土や蛙目粘土は世界でも有数の粘土である。その陶土の特性を活用して、食卓用製品以外に置物装飾品・電磁器・ファインセラミックスなどの様々な「やきもの」を時代の流れに合わせて作っている。食卓用製品は東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化したことは有名な話である。 |
赤津焼【陶器】
産地 | 愛知県瀬戸市赤津地区 |
歴史 | 瀬戸窯とともに発展した窯で平安時代の開窯とされる。後年、瀬戸には磁器の製法が導入されたが赤津では定着せず、現在に至るまで陶器を主体としている。戦国時代には職人が美濃地方に移ってしまい存続の危機に立つが、徳川家康が名古屋開府の際に職人を呼び戻したことにより、再び焼物の産地としての地位を確立した。 |
特徴 | 7種類の釉薬(灰釉・鉄釉・古瀬戸釉・黄瀬戸釉・志野釉・織部釉・御深井釉)と12種類の多彩な装飾技法が今に伝わり、国指定の伝統的工芸品にもなっている。 |
常滑焼【炻器】
産地 | 愛知県】常滑市・知多半島内 |
歴史 | 日本六古窯の一つ。常滑窯は、猿投窯【さなげよう】の流れをくんでいる。古常滑とよばれる初期のものは大変歴史が古く、六古窯の中でも最古で最大規模であったという。安土桃山時代まで、累計で3000基を超す窯が築かれたと推定されている。平安時代には小椀や小皿など日用品のほかに経塚壺【きょうづかつぼ】(仏教の経典を入れた)が作られた。また、室町・安土桃山時代には茶の湯や生け花用品など、さまざまなものが作られてきた。江戸時代には、それまでの素焼き状の赤物【あかもの】の製品のほかに、高温で焼きしめる真焼け【まやけ】の陶芸技術も加わったという。そして明治時代には西欧の技術が導入され、陶管、焼酎瓶、煉瓦タイル、衛生陶器などの生産がはじまったと伝わる。 |
特徴 | 常滑焼の特徴の一つが、原料に含まれている鉄分を赤く発色させる技法である。酸化鉄を多く含んだ陶土は、お茶を淹れた時に酸化鉄とお茶のタンニンが反応して、苦み渋みがほどよくとれ、まろやかな味になるといわれている。近年、名古屋市の伝統産業である有松・鳴海絞りの模様を施した陶磁器を発表して注目を浴びた。これは、常滑焼の作家と有松絞り業者が連携を図ったものとされる。 |
三重県の焼き物
伊賀焼【陶器】
産地 | 三重県伊賀市 |
歴史 | 伊賀焼の発祥は、5世紀前後とされる。藤堂高久の時代に伊賀陶土の乱掘を防ぐ制度が設けられた際に、多くの陶工が信楽に移り、一時衰退した。18世紀に入り藤堂高嶷が作陶を奨励したことにより「再興伊賀」の時代を迎えた。明治期以降、伊賀陶土の特性を生かした耐熱食器の生産が主流となり、産地としての基盤が固めた。 |
特徴 | 伊賀焼に使われる古琵琶湖地層の土は、細かな気孔が多く、熱を蓄えることに優れている。現在、伊賀市には約50軒の窯元がある(2021年)。 |
萬古焼【炻器】
産地 | 三重県四日市 |
歴史 | 萬古焼は、明治時代には洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や海外輸出も行われた。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であった。そのため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、昭和11年(1936年)に開催された国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引が始まった。戦前は生産額の60%は対米輸出が占めていた。対米輸出が途絶えた戦時期には、耐火煉瓦や、軍需優先で不足した金属製品の代用品の製造などを行った。昭和20年(1945年)6月18日の四日市空襲で、製造設備の8割と販売業者の施設のほとんどが焼失する大きな被害を受けた。しかし、戦後、萬古焼の復興は速やかに進んだ。昭和34年(1959年)頃には高熱を加えても割れない陶土の開発に成功し、「割れない土鍋」として国内シェアを伸ばした。 |
特徴 | 萬古焼/万古焼【ばんこやき】は、ペタライトを使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の中間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。 |
阿漕焼【陶器】
産地 | 三重県津市 |
歴史 | 阿漕焼【あこぎやき】の名の由来は地名の阿漕浦に因む。萬古焼の流れを汲み、200年余りの歴史がある。阿漕焼の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされる。瑞牙は藤堂藩の招聘によって当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めた。このため、当初は安東焼といわれた。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、阿漕焼と名乗るようになり、藩の御用窯として主に日用雑器が焼かれた。その後、中絶と再興が繰り返され、廃絶に至ったが、それでも阿漕焼を惜しむ声が絶えず、戦後になって日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、阿漕焼は再興を果たすことになる。 |
特徴 | 器自体は萬古焼の流れを汲みながら、九谷焼のような絵付けを施すのが特徴。朱や緑・黄色・紫・紺青など艶やかな色彩を巧みに用い、時代によって様々な形態を見せる。 |
奈良県の焼き物
赤膚焼【陶器】
産地 | 奈良県奈良市・大和郡山市 |
歴史 | 大和国五条村の五条山附近一帯の土は焼き物に適し、古くからの窯業地で、民間の手で土器・火鉢などの製作が盛んにおこなわれ、桃山時代の茶道の広がりとともに奈良土風炉などの茶道具が製作され産業として定着していた。住吉屋平蔵により本格窯に進み寛政元年(1789年)五条村赤膚山に藩窯登り窯が作られる。その窯は、京都から招へいされた陶工・丸屋治兵衛によって作陶され優れた焼き物が作られた。藩主から名字「井上」と「赤膚山」の窯号と「赤ハタ」の銅印を与えられ、赤膚焼としての創始となった。 |
特徴 | 赤膚焼【あかはだやき】は、赤みのある乳白色の柔らかな素地と奈良絵文様を特色とする。赤膚焼と称されるものが数多くあり、それぞれの窯の作品を見て好みに合う作品を購入し日常に使用される。赤膚焼は、その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。赤膚焼には裏に「赤膚山」という刻印がつけられている。江戸時代から続く窯元である古瀬堯三窯のものには「赤膚山」の刻印のみ見られる。その他の窯のものには「赤膚山」または「赤ハタ」の刻印以外に作家印や窯印がつく。 |
和歌山県の焼き物
瑞芝焼【陶磁器】
産地 | 和歌山県和歌山市 |
歴史 | 寛政8年(1796年)に岡崎屋阪上重次郎が紀州藩の官許を受けて旧鈴丸町に開窯、享和元年(1801年)滅法谷に窯を移した。紀州徳川家十代藩主徳川治寶に芝の緑色を表現した青磁を焼くように命じられ、京都の名工、青木目米の指導を受けながら大成した。「瑞芝」の銘は、緑の発色に満足した治寶が名づけたという。以後は藩の御用窯となり、男山焼や偕楽園焼と共に藩を代表する窯として発展を遂げた。窯場には黒の総漆に金の御紋が付いた藩主専用の御成門があったという。明治維新で藩の庇護を失うと衰退し、明治7年(1874年)に廃窯した。しかし、五代目が美濃焼の梅平窯で修行後に帰郷し、1973年に市内善明寺で築窯した。徳川時代の作品や北宋・南宋の釉薬を研究し、研鑽して、瑞芝焼の復興を果たし、現在に至る。 |
特徴 | 瑞芝焼【ずいしやき】は、鈴丸焼又は滅法谷焼【めっぽうたにやき】とも呼ばれる。「瑞芝」(ずいし;みずみずしいしば)という銘が表すとおり、透明感のある青緑色が特色。中国龍泉窯の流れを汲む。 |
滋賀県の焼き物
信楽焼【陶器】
日本六古窯のなかで、信楽焼は最古のものの一つとされている。
土味を生かした素朴な風合いが、長い年月を超えて多くの人々に愛されて来たからだと言われている。
産地 | 滋賀県甲賀市信楽町 |
歴史 | 日本六古窯の一つ。歴史は古く、鎌倉時代後期から、あるいは奈良時代の中頃に信楽に遷都した頃から始まったとも伝わる。紫香楽宮の屋根瓦を信楽で焼いたという。 |
特徴 | 付近の丘陵からでる信楽の良質の陶土はケイ石や長石が多く混じっているため、耐火性に富み、可塑性(固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質)とともに腰(粘性)が強いといわれる。そのため、大物づくりに適し、かつ、小物づくりにおいても細工しやすいという特徴がある。釉薬を用いずに焼成すると非常に温かみのある緋色(スカーレット)が発色する。信楽特有の土味を発揮して、登窯や窖窯の焼成によって得られる温かみのある緋色の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられる。長い歴史と文化に支えられ、伝統的技術が今日に伝えられている。土と炎が織りなす芸術として「わび・さび」の趣を今に伝えているが、作家によって、焼きしめや粉引などバラエティーに富んだ焼き物を楽しめる事も信楽焼の特徴に挙げられる。現代の信楽焼は様々な技法が用いられる個性あふれる陶器であると評価される。信楽焼は狸の置物(焼き物)でも有名である。 |
信楽焼は狸の焼き物でも有名である。信楽に行けば、どこへ行っても狸の焼き物に出会う。なんとも愛嬌のある狸の造形は「八相縁起」と呼ばれる縁起を体現しているとされる(下図参照)。
「信楽=狸」というイメージが定着した理由は、昭和26年に昭和天皇が信楽を行幸された際に、天皇陛下を歓迎するために信楽狸に小旗を持たせ沿道に延々と並べたのが全国に報道されて人々が知るきっかけになったためと言われている。
信楽狸にはいろいろなバリエーションがあるので見ていて飽きない。しかし、信楽焼は狸の置物だけでない。
信楽の陶器店に行けば、茶器や食器などの日用品の他、めだか鉢・睡蓮鉢や傘立て、植木鉢など、あらゆる製品が手に入る。
高価なのでなかなか手が届かないが、美術品のような花瓶や壺には素人でも素晴らしいと分かる逸品が多い。
膳所焼【陶器】
産地 | 滋賀県大津市 |
歴史 | 膳所焼【ぜぜやき】は、遠州七窯の一つに数えられ、茶陶として名高い。膳所焼は、遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された。しかし、膳所焼の隆盛は石川忠総治世時に留まり、石川忠総が死去した後は、徐々に衰退していった。膳所焼の廃絶を惜しんだ地元の岩崎健三が、1919年に登り窯を築き、京都の陶工・二代伊東陶山が技術的な指導を行い膳所焼の復興に生涯尽力した。岩崎健三の後、息子の岩崎新定に継承され、新生膳所焼は今日に至っている。 |
特徴 | 黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神を具現化している。 |
京都府の焼き物
京焼・清水焼【陶磁器】
産地 | 京都府 |
歴史 | 桃山時代から京都で始められた近世を代表する陶磁器を京焼と呼ぶ。歴史的には清水焼のほか、粟田口焼(粟田焼)、音羽焼、八坂焼、御菩薩池焼、修学院焼、清閑寺焼、御室焼などが含まれる。楽焼(聚楽焼)は含めない。清水焼は、清水寺への参道である五条坂界隈に多くの窯元があったのが由来とされる。 |
特徴 | 一度焼成した後に上絵付けを施す「上絵付けの技法」を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴。他窯のデザインを本歌取りした写しものも得意とした。 |
楽焼【陶器】
産地 | 京都府 |
歴史 | ー |
特徴 | 手捏ねで作られる陶器(楽茶碗)。電動の轆轤【ろくろ】や足で蹴って回す蹴轆轤を使用せず、手とへらだけで成形する手捏ね【てづくね】と呼ばれる方法で成形した後、750~1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。千利休らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みのある形状が特徴。茶道具や炭道具・懐石具(向付など)として使用される。 |
朝日焼【陶器】
産地 | 京都府宇治市 |
歴史 | ー |
特徴 | 原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴。その特徴によって呼び名が決まっている。 燔師【はんし】は、赤い粗めの斑点がぽつぽつと表面に浮き出たような器。鹿背【かせ】は、肌理細かな斑点が見られる器。鹿の背中のような模様から名付けられた。紅鹿背【べにかせ】は、鹿背の中でも、特に鉄分が多く、よりくっきりと紅色が見える器。 |
兵庫県の焼き物
丹波立杭焼【陶器】
産地 | 兵庫県丹波篠山市今田町立杭 |
歴史 | 日本六古窯の一つ。起源は平安時代にまで遡る。桃山時代までは「穴窯」が使用されていたが、その後「登り窯」が導入され、同時期に蹴りロクロの技術も取り入れ、その伝統技術が今に伝えられている。江戸時代前期には、茶人・小堀遠州らの指導で味わいのある茶陶が焼かれ、篠山藩の庇護のもとに江戸時代後期には全国的に知られるようになった。穴窯時代は「小野原焼」と呼ばれていたが、登り窯時代になってからは、丹波立杭焼【たんばたちくいやき】の他に丹波焼や立杭焼などとも呼ばれている。 |
特徴 | 丹波焼または立杭焼ともいう。主に生活雑器を焼いてきた。中世の丹波立杭焼の特徴は赤っぽい土肌にかかる、焼き締めによる自然釉に特徴がある。若緑色のおとなしめで爽やかな作品が多い。江戸時代以後は釉薬や技法が多様になったが、現代の丹波立杭焼でもその風合いを引き継いだ民芸調の作品が多く見られる。 |
出石焼【磁器】
産地 | 兵庫県豊岡市出石町一帯 |
歴史 | 18世紀、泉屋治朗兵衛と伊豆屋弥左衛門の二人が出石町に窯を開いたことが起源とされている。その後は有田の職人に技術を学び、柿谷、谷山にて良質な陶石を発見した。一時、衰退の危機に陥るも19世紀に現在の透き通るような白磁を生産できるようになり、一躍人気となった。 |
特徴 | 出石焼【いずしやき】は、出石白磁ともいう伝統的工芸品である。国内でも珍しい白磁を中心とした焼き物である。透き通るように白い磁肌に、浮き彫りや透かし彫りによる精緻な紋様が際だつのが特徴である。その純白は「白すぎる白」とも評され、他に類をみないほどの最高峰の白さを誇る磁器である。 |
明石焼【陶磁器】
産地 | 兵庫県明石市 |
歴史 | 明石焼は、江戸時代中頃からはじまった明石藩の民窯、三島や古清水風・京焼風の色絵陶器の影響を大きく受け、色絵の皿や碗などが多く焼かれた。江戸時代後半頃が最盛期でそのころには古京焼風の色絵の高級品が増えていった。 |
特徴 | 明石・明石浦・明浦山・明石湊などの印がある。 |
赤穂雲火焼【陶器】
産地 | 兵庫県赤穂市 |
歴史 | 赤穂雲火焼【あこううんかやき】は、大嶋黄谷【おおしまこうこく】の雲火焼を復元した陶器である。大嶋黄谷が28~29歳(1848~1849年)の頃、赤穂逗留中の今戸焼の陶工・作根弁次郎から陶技を習得し、1852年に雲火焼の焼成に成功した。雲火焼は、20世紀になって復元され、兵庫県伝統的工芸品に指定された。現在は赤穂雲火焼の窯元・赤穂瀬戸内窯で焼かれている。 |
特徴 | 雲火焼の特徴は白地に橙色、黒色の夕焼け空にも似た美しい窯変が現れている点であるという。大嶋黄谷の作品は花紋褒賞を受賞するほどで、弟子もいたが、雲火焼の技法は継承されなかった。 |
珉平焼【陶器】
産地 | 兵庫県淡路島 |
歴史 | 珉平焼【みんぺいやき】は、淡路島で焼かれた焼物で、淡路焼とも呼ばれており、文政年間(1818~1830年)に淡路国稲田村(現南あわじ市)の醤油醸造家・賀集珉平【かしゅうみんぺい】が淡路島の伊賀野村(現南あわじ市北阿万伊賀野)で開窯したのが始まりとされる。賀集珉平は、初め楽焼を試み、黄釉【こうゆう】と青釉を開発した。1834年(天保5年)に京都から陶工・尾形周平を招き、色絵の技術とデザインを導入後、1838年には茶褐釉、鬱白陶を創製した。制作された作品には、京焼風のものが多いが、青磁、白磁、染付、色絵、安南写し、絵高麗写し、交趾【こうち】写しなども焼かれた。 |
特徴 | 珉平焼の特徴は、幅広いバリエーションにある。江戸時代後期の日本で、これほど多くの種類の陶器を焼いていた窯はなかったのではないかと言われている。黄色・緑・青・水色・白などの透明感のある釉薬を用いた目を惹く色合いが印象的な陶器でもある。陶芸作家・岡本純一氏は、柳宗悦の唱える「民藝論」に共感し、2010年から故郷である淡路島で農的生活の傍ら、独学で作陶を始め、2012年に「Awabi ware」を屋号にして、日用食器の制作を開始した。コンセプトは100年後も使われているような「受け継ぐ器」であり、「淡路の美しさ」と書いて「あわび」、「ウェア」には製品の意味が込められているという。淡路に息づく美しの品、珉平焼が岡本氏の手によって復活を遂げたといえる。 |
鳥取県の焼き物
因久山焼【陶器】
産地 | 鳥取県八頭町(旧郡家町) |
歴史 | 因久山焼【いんきゅうざんやき】の始まりは、明和年間(1764年~72年)に鳥取藩主池田侯によって京都から招聘された六兵衛が開窯し、尾崎家初代治良右衛門と芹沢家二代亀五郎に陶技を伝授したことに始まる。享和・文化年間(1801年~18年)には、信楽の陶工・勘蔵が新たな陶法をもたらし、息子勘助とともに名品を残すなど、現在知られる因久山焼の基礎が確立したという。 |
特徴 | ー |
牛ノ戸焼【陶器】
産地 | 鳥取県鳥取市河原町 |
歴史 | 牛ノ戸焼【うしのとやき】は、天保年間(1831~1845年)に因幡の陶工・金河藤七によって開窯されたのが始まりという。その後は小林梅五郎に継承され、徳利や擂り鉢などの日用雑器を焼いていく。途中、継続困難になったこともあるが、窯を絶やすことなく、継がれている。 |
特徴 | トレードマークの梅紋は初代から継承されている刻印である。牛ノ戸焼は、用の美を追求した作品で、芸術性よりも実用性で評価を得ている。素朴ながら、緑と黒を半々に振り分けた釉薬はモダンさを感じさせ、センスの高さを示す。イッチン描き(筒描き)で立体感のある絵を描いた作品もある。 |
島根県の焼き物
石見焼【陶器】
産地 | 島根県江津市・旧石見国一帯(浜田市、益田市、大田市、鹿足郡津和野町) |
歴史 | 元々、石見は窯業【ようぎょう】が盛んな土地柄で、特に水瓶は北前船を使って全国各地に出荷されていた。18世紀の中頃には周防国や備前国から本格的に技術を学んで陶器製作に磨きを掛けていた。明治になり多くの窯元が藩からの庇護を失って衰退する中で、石見焼の窯元数は100を超え、最盛期を迎えていたという。その躍進を支えたのが大甕である。石見焼の甕は耐水性に優れ、貯水には最適であったため全国から需要があった。しかし、上水道の整備やプラスチック製容器の普及につれて衰退し、窯元は一気に激減した。その後は時代に合った容器を作ることで対応していった。代表的なものが漬物や梅干、味噌貯蔵用の小口の瓶である。 |
特徴 | 原料になる陶土は非常に耐久性に優れるので、石見焼【いわみやき】は大型の製品が数多く生産され、飯銅【はんどう】と呼ばれる大甕【おおみか】で知られる。しかし、現在は小振りの日用品も多く焼かれる。石見焼の特長である塩分、酸、アルカリによる腐蝕への強さが功を奏し、苦しい時代を耐え抜いた。現在は傘立てやマグカップなども製作し、伝統的な意匠、技術を継承しながらも、時代の変化に対応した商品を焼き続けている。 |
布志名焼【陶器】
産地 | 島根県松江市玉湯町 |
歴史 | 布志名焼【ふじなやき】は、江戸時代中期、舩木与次兵衛村政が開窯し、松江藩の藩命で楽山窯より移住した土屋善四郎の指導によって品質が向上し、松平不昧の指導を受けた土屋や永原の藩窯と舩木系子孫らの民窯が共栄した。松江藩の庇護を受けて、茶道具を作る御用窯と、北前船に出荷する雑器などを作る民間の窯で棲み分けが行われていた。明治頃に全盛を迎え、布志名特有の黄釉色絵物は、国内ばかりでなく海外にまでも販路を広げた。 |
特徴 | 昭和に入り、民芸運動の影響を受け、化粧泥で模様を施したスリップウェアと呼ばれる技法が取り入れられた。 |
出西窯【陶器】
産地 | 島根県斐川町(現出雲市)出西 |
歴史 | 袖師や丹波、益子、唐津などで修行を積んだ地元出身の5人の青年によって開かれた出西とは出雲の西という意味である。 |
特徴 | 窯元は出西窯一軒だけであるが、窯主を持たない共同作業場となっており、土捏ね、轆轤回し、焼きなどの工程一つ一つが共同作業となっているのが特徴である。丈夫で安価で飽きの来ない「無銘の実用陶器」が共通理念であり、大衆向けの民陶として知られる。一方で粘土から釉薬・薪に至るまでの原料は全て島根県産で通すなど強いこだわりもある。 |
温泉津焼【陶磁器】
産地 | 島根県大田市温泉津町 |
歴史 | 温泉津焼【ゆのつやき】は、宝永年間(18世紀初頭)に始まる。主に半斗(水瓶)を造って日本各地に出荷していたという。戦後、プラスチック製品の発達で需要が減り、一時衰退した。しかし、現在、窯は再興されている。 |
特徴 | 温泉津焼は、耐火性の高い石見粘土を使用し、1300℃以上の高温で焼成する。そのため温泉津焼の特徴は、硬くて割れにくく、耐用年数の長い、日用的な食器に適するとされる。 |
温泉津温泉に行った際に、温泉津焼を展示しているという温泉津やきものの里に行ってみた。そこで私を驚かせたのは今までみたこともない大きな登り窯(長さ30m x 20m)であった。温泉津焼は、実用的な焼き物であるらしいのでお土産用と自分用も含め家族用にいくつか買って帰った。
岡山県の焼き物
備前焼【炻器】
産地 | 岡山県備前市周辺 |
歴史 | 日本六古窯の一つ。平安時代には全国随一の須恵器の生産地として繁栄した。備前窯は、岡山県東部邑久【おく】地方の須恵器系の流れをくんでいる。須恵器【すえき】 とは古墳時代から平安時代にかけての日本で生産された陶質土器(炻器)のことである。 |
特徴 | 備前市伊部【いんべ】地区で盛んであることから伊部焼との別名もある。特徴は、釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、窯変によって生み出される一つとして同じものがない模様である。魅力的な茶褐色の地肌は、田土【ひよせ】と呼ばれるたんぼの底(5m以上掘る場合もある)から掘り起こした土に、山土と黒土を混ぜ合わせた鉄分を多く含む土を焼くことによって現れる。出土の場所、各々の土を寝かす期間(数年~10年)、土の配合比率によって成分が違ってくるため、備前焼を作るには熟練の技が問われる。現在は茶器、酒器、皿などが多く生産されている。「使い込むほどに味が出る」と言われ、派手さはないが飽きがこないのが備前焼の特色であると言われている。 |
虫明焼【陶器】
産地 | 岡山県瀬戸内市虫明 |
歴史 | 虫明焼【むしあけやき】の始まりは、諸説あるが、約300年前とされる。廃窯中の虫明焼を復興するために有志が相談し、昭和7年(1932年)に英田郡出身の陶工・岡本英山を招いた。英山の作品は、ほとんどが茶碗、水指などの茶陶で、繊細さ・優美さを売りにしていた従来の虫明焼に素朴さ・力強さを持ち込んだとされる。 |
特徴 | 虫明焼の特徴は、天然松灰を主原料に自家精製した透明の灰釉を用い、その色調は施釉の濃淡や松木の焚き方によって灰釉のおとなしい青色・赤色・黄色などに変化する。造りは薄作りで淡性な粟田風のひなびた風情があるという。 |
酒津焼【陶器】
産地 | 岡山県倉敷市酒津 |
歴史 | 酒津焼【さかづやき】は、明治2年(1869年)に倉敷の豪商・岡本末吉が地元の良質な陶土に目を付け、窯場を開いたのが始まりとされる。当初は食器など日用雑器を焼いていた。民芸運動の影響を受け、酒津焼は一変し、大量生産、大量消費型の日用雑器作りから花器や茶器など趣のある民芸陶器が主流となった。 |
特徴 | 酒津焼の特徴は、器が分厚く、堅牢であることである。また飾りの少ない意匠で、灰釉を中心とした色であるために地味であるが、その独特の味わいは「自然派」と形容されている。 |
羽島焼【陶磁器】
産地 | 岡山県倉敷市郊外 |
歴史 | 羽島焼【はしまやき】は、小河原虎吉によって開窯された陶器。 |
特徴 | 日用品を意識して製作されたものが多く、無駄な飾りや技巧を省いた質素な作柄で知られる。 |
広島県の焼き物
宮島焼【陶器】
産地 | 広島県廿日市市 |
歴史 | 宮島焼の起源となる「お砂焼」が焼かれ始めたのは天明・寛政の頃(1781~1801年)と伝えられる。後に浅野藩の奨励品として宮島焼が奨められ、全国に名を馳せたが、藩政の弱体化もあって長続きしなかった。明治43年(1910年)に京都で修行を積んだ川原陶斎が窯を開き、その後初代山根興哉が京焼や萩焼の手法を採り入れた宮島焼を焼き始め、厳島神社の祭祀品も担当することになった。現在もこの川原、山根の2つの窯が伝統を継承している。 |
特徴 | 宮島焼は、廿日市市の対岸にある宮島の厳島神社参拝の際の縁起物として焼かれた。別名を神砂焼【しんしゃやき】あるいは御砂焼【おすなやき】とも呼び、宮島の砂を粘土に混ぜて焼く。「お砂」は粘土の中にごく微量を混ぜ込んでいるだけであり、見て判別できるものではない。だが、その神域の「お砂」を頂戴することによって、縁起物としての価値を見出す。これは元々、近郷の賀茂郡の村人らが旅行に出かける際に、宮島の砂を「お砂守」として拝受し、無事に帰郷した際には、その砂で土器(お砂焼)を作り、宮島の神前に供えたという慣習に因んでいる。宮島焼は、派手さがなく、素朴で独特の温かみがある。意匠は宮島のシンボルである紅葉や拝殿が多い。用途は土産物向けに茶碗、小皿、土鈴などを焼いている。 |
山口県の焼き物
萩焼【陶器】
産地 | 山口県萩市、長門市、山口市、阿武郡阿武町 |
歴史 | 17世紀の初め、藩主である毛利輝元の命によって御用窯が開かれたのが起源である。その後、昭和に入ると西洋化によって存続の危機に立つが、10代目三輪休雪が白い萩焼を開発し、再び人気に火がついた。 |
特徴 | 原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる貫入と使い込むことによって生じる七化けがあるのが特徴。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。素地の色を生かすため、模様は地味だが人気が高い。茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物。 |
徳島県の焼き物
大谷焼【炻器】
産地 | 徳島県鳴門市大麻町大谷 |
歴史 | 18世紀、豊後の職人・文右衛門が赤土を用いて焼き始めたのが起源とされている。その後は藩主の蜂須賀治昭が九州の職人を呼び寄せ、別で窯を開き、磁器も生産されるようになったが、原材料の取り寄せに費用がかかり3年ほどで廃窯してしまう。その後、藩の藍商人が自分の弟に信楽焼の技術を学ばせ、登り窯を築く。そして水かめや藍染に用いるかめの生産を開始し、現在の大谷焼の起源となったとされる。明治に入ると化学染料の開発、生活様式の変化に伴い、藍甕の需要は激減、不振に陥った。それでも脈々と大甕作りは続けられ、今日に至っている。 |
特徴 | 大谷焼は、寝轆轤と呼ばれる独特の轆轤を用いて制作される大甕【おおみか】で知られる。寝轆轤は相手が寝ながら足を用いて回す仕掛けで基本的に大甕作りは二人の呼吸が合っていないと作れない。なお、この大甕は阿波地方の特産である藍染めに欠かせない道具であり、藍甕と呼ばれる。原料の陶土には鉄分が多く含まれ、独特の光沢を持つ。 |
香川県の焼き物
理平焼【陶器】
産地 | 香川県高松市 |
歴史 | 理平焼【りへいやき】は、高松焼ともいう。初代高松藩主が京都の陶工を招いて焼かせた御庭焼がルーツとなっている。現在、理平焼と呼ばれるのは明治に入ってからで、栗林公園の北門前へ窯場を移転してからである。窯創設以来、廃窯することなく、脈々と受け継がれ、現在は14代目である。 |
特徴 | 理平焼の特徴は土の性質によって生じる、藤色の器肌にある。また、京焼の流れを汲む蒔絵の技法を用いた作品も試みられている。 |
愛媛県の焼き物
砥部焼【陶磁器】
産地 | 愛媛県砥部町、松山市、伊予郡松前町 |
歴史 | 大洲藩主である加藤泰候が経済政策の一環として砥石くずを使った磁器の生産を始めたのが起源とされている。 |
特徴 | 後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから発展を遂げた。やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。他窯の磁器と比較して頑丈で重量感があり、ひびや欠けが入りにくいために実用的食器(道具)としての評価が高い。夫婦喧嘩で投げても壊れない器として「けんか器」の異名も持つ。 |
道後温泉に行った際にはじめて砥部焼の存在を知った。お土産に砥部焼を買ったが、そこで砥部焼が実用的な焼き物であることを知った。興味が湧いたので窯元の一つである梅山窯を訪ねた。
楽山焼【陶器】
産地 | 愛媛県松山市 |
歴史 | 楽山焼【らくざんやき】は、三代目藩主であった松平定長が「あな寒しかくれ家いそげ霜の蟹」と興じたことに甚く感銘を受け、それに因んで蟹の紋様を入れるようになったといわれる。 |
特徴 | 今日でもこの蟹の紋様が楽山焼最大の特徴であり、激流に棲む蟹の勇壮さが引き立つ。 |
高知県の焼き物
内原野焼【陶器】
産地 | 高知県安芸市 |
歴史 | 内原野焼【うちはらのやき】は、1829年年頃、内原野に初めて窯が開かれ、徳利、すり鉢などの日用品を中心に焼かれた。昭和初期まで登り窯を使って大型の焼き物を作っていたが、生活様式の変化とともに需要が減少した。窯元の衰退後、内原野焼の復興と発展を目指した結果、野村窯、福留窯、原峰窯、陽和工房の4つの窯元が存在するようになる(2020年)。 |
特徴 | 木灰やワラ灰を原料にした釉薬を使った温かみのある素朴な風合いが特徴である。 |
福岡県の焼き物
小石原焼【陶器】
産地 | 福岡県東峰村 |
歴史 | 17世紀の後半、福岡藩主である黒田光之が伊万里の陶工を呼び、窯を築いたのが起源とされている。民藝運動にも関わったイギリス人陶芸家、バーナード・リーチが小石原焼を絶賛、更に1958年にブリュッセルで開催された万博の日本館第3部にて小石原焼がグランプリを受賞し、海外からも注目が集まった。 |
特徴 | 主に生活雑器が焼かれる。轆轤を回しながら、器に刃先や板バネなどを使い規則的に入れる独特の幾何学的模様が特徴である。その技法には化粧土を刷毛で塗る刷毛目、工具による削り目が特徴の飛び鉋、櫛描き、指描き、流し掛け、打ち掛けなどがある。 |
上野焼【陶器】
産地 | 福岡県香春町、福智町、大任町 |
歴史 | 17世紀の初め、小倉藩主の細川忠興が職人に登り窯を作らせたのが起源とされている。最初の窯は、皿山窯(本窯)、釜の口窯、岩谷窯(唐人窯)の3つで、これらは上野古窯と呼ばれる。忠興自身が千利休から教えを受けた茶道に精通していたため、茶道具が多く生産された。明治期に衰退の様相を見せたが、1902年に復興した。 |
特徴 | 特徴は他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であること。また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用い、窯変を生み出すのが特徴で、絵付けは基本的に用いない。軽くて使いやすいため、日常的に使用する器として人気が高い。 |
高取焼【陶器】
産地 | 福岡県東峰村、福岡市早良区等 |
歴史 | 約400年の歴史を持つ県下有数の古窯。 |
特徴 | 時代により、作風が全く異なるのが特徴。草創期の古高取、特に「内ケ磯窯」は豪放かつ大胆な意匠で、芸術性豊かで興趣をそそる志向がある。その後の「遠州高取」は、器が端正になり、瀟洒・風流を好む作品が焼かれる。「小石原高取」の頃には、技術は爛熟し、更に繊細な作風となる。今日の作風は使用する釉薬が多く、高取黄釉・春慶釉・高宮釉・道化釉・ふらし釉・真黒釉など個性的な釉薬も多い。 |
一の瀬焼【陶磁器】
産地 | 福岡県うきは市一の瀬地区 |
歴史 | 朝田焼【あさだやき】とも呼ばれる。1959年に創立された「一の瀬陶器株式会社」が、旧窯跡に築窯し、上野窯(上野焼)、小石原窯(小石原焼)、有田窯(有田焼/伊万里焼)、黒牟田窯(黒牟田焼)、小鹿田窯(小鹿田焼)等から陶工を招き陶器を造り始めたため、それら窯元との関わりが深い。 |
特徴 | 現在は、一の瀬陶器株式会社から独立・分家した6窯(窯元)が、伝統的な作風は残しながら、差別化を意識し、釉薬・製法など多様な作品を取り扱って盛況を呈している。 |
佐賀県の焼き物
伊万里・有田焼【磁器】
産地 | 佐賀県伊万里市、武雄市、嬉野市、西松浦郡有田町 |
歴史 | 伊万里・有田焼は16世紀、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本へやってきた陶工が有田泉山にて陶石を発見し、磁器を作り始めたのが起源であるとされる。これが日本初の磁器とされ、現在でも磁器産地として日本を代表する産地となっている。 |
特徴 | 透き通るような白磁が特徴で、鮮やかな絵付けが施される。ガラスのように滑らかで堅く、薄くて軽いために日常の食器として人気となっている。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。有田焼の名称は、国内外での知名度が高く、広義の呼び方とされる。伊万里焼という名前は、昔伊万里港から有田焼が出荷されていたことが起源となっている。伊万里焼の名称は、有田を含む肥前磁器全般を指す場合もある。 |
唐津焼【陶器】
産地 | 佐賀県唐津市、多久市、伊万里市、嬉野市、武雄市、東松浦郡玄海町、西松浦郡有田町、杵島郡白石町 |
歴史 | 歴史は古く、16世紀頃に生産が始まったとされている。その素朴で味わい深い見た目から、茶の湯の世界から重宝された。 |
特徴 | 日常雑器から茶器までさまざまな器種があり、茶器として名声を馳せた。作風・技法も多岐にわたる。唐津焼の特徴は、李氏朝鮮から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところである。特に蹴轆轤、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯がある。窯は連房式登窯という大がかりな窯を用い、そこで1300℃の高温で一気に焼き締める。意匠は、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがある。「作り手八分、使い手二分」という言葉があり、使ってもらって完成という用の美の考えを表現しているとされる。 |
白石焼【陶器】
産地 | 佐賀県みやき町北茂安 |
歴史 | 古くは磁器が中心で、有田・唐津と共に肥前の代表的な磁器産地として名を馳せた歴史を持つ。 |
特徴 | 天草の陶石に「五穀さん」と呼ばれる地元産の粘土を混ぜて用いる。現在の陶器は、民芸調の作品が主流で、伝統的な飛び鉋、焼き締め、掻落【かきおとし】などの技法に加え、現代的な感覚の絵付けを行っている。白を基調に季節の花などをモチーフにした意匠で、独特の風合いが特徴的。 |
肥前吉田焼【磁器】
産地 | 佐賀県嬉野市 |
歴史 | 歴史は非常に古く、佐賀藩主が朝鮮陶工を吉田山に招き、磁器を焼かせたことから吉田焼が生まれた。明治に磁器生産の「精成社」が吉田山に創業された。主に輸出用の食器を生産した。有田焼から学んだ技術の向上もあり中国・朝鮮などに市場を広げ、大正年間には朝鮮半島向けの市場を独占するほど好景気に沸いたが、朝鮮の情勢悪化や他生産地の台頭などにより次第に衰退した。しかし、吉田製陶株式会社の設立などで合理化を図り、廃絶は免れ今日に至っている。現在は11軒の窯元があり、嬉野温泉の発展に伴い観光客向けの食器を多数焼いている。 |
特徴 | 肥前吉田焼は古くから生活向けの食器類を焼いてきており、確立されたスタイルは存在しない。歴史は非常に古く、佐賀藩主が朝鮮陶工を吉田山に招き、主に染付磁器・色絵などを焼いているが、窯元によって伝統的な青磁から現代的なデザインまでリベラルな作風が特徴的である。伝承や物語をあしらった意匠のものなど様々で、作品も湯呑み、茶碗、酒器からコーヒーカップ、花瓶まで幅広い。 |
肥前尾崎焼【陶器】
産地 | 佐賀県神崎市 |
歴史 | 九州でも有数の古窯で、尾崎で暮らした敗残兵が、大陸から持ち込んだ技術で製陶を始めたという。ルーツには諸説あるが、地元で「蒙古屋敷の跡」と伝わる場所があり、古い陶器が出土する。 |
特徴 | 始まりが古い分、近隣の有田焼/伊万里焼に比べ工程が簡素で、焼成温度も800℃と低くかった。現在の尾崎焼は、地元産の土、釉薬、絵具を使い、白土を碾いて土に混ぜ、それに和紙染めという手法を用いて絵付けを行うものである。モチーフは近くの草花で、それを丁寧に写し取った物を意匠に凝らす。その作品は非常に温かみがあり、気品が漂う一品であるという。 |
武雄古唐津焼
産地 | 佐賀県 |
歴史 | ー |
特徴 | 黒牟田焼、多々良焼、小田志焼などの総称。 |
長崎県の焼き物
三川内焼【磁器】
産地 | 長崎県佐世保市 |
歴史 | 17世紀の初め、平戸藩主の松浦鎮信の命で作陶を始めたのが起源とされ、明治維新まで、平戸藩の御用窯として栄えた。 |
特徴 | 三川内焼【みかわちやき】は、平戸焼【ひらどやき】ともいう。針尾島の網代陶石と肥後天草陶石を用いた白磁に呉須で藍色の絵付けがされる(唐子絵が有名)。その優雅で精緻な絵柄は日用品から高級品まで作られている。また、透かし彫りや、光を通す程薄い「卵殻手」といった技法が特徴とされている。現在14の窯元がある。 |
波佐見焼【陶磁器】
産地 | 長崎県東彼杵郡東彼杵町、川棚町及び波佐見町 |
歴史 | 波佐見焼【はさみやき】は、慶長年間、藩主大村氏が朝鮮から連れ帰った陶工に始まる。江戸時代から大衆向けの食器を巨大な連房式登窯で多量に焼いてきた。当初は釉薬を施した陶器を焼いていたが、良質の陶土を発見したことによって磁器生産が中心となり、大衆向け陶磁器を志向し、大量生産に特化した。 |
特徴 | 元々は有田焼の下請け仕事を行っていたが、現在は独自のお洒落な製品が数多く生産している。産地には窯元が90近くあり、町で働く人の4割が器作りに携わっているという。丈夫な日用品が多く、今日でも食器生産が盛んである。 |
熊本県の焼き物
小代焼【陶器】
産地 | 熊本県荒尾市、熊本市、宇城市、玉名郡南関町、玉名郡長洲町 |
歴史 | 小代焼/小岱焼【しょうだいやき】は、1632年に藩主の命によって焼き物を焼かせたのが始まりとされる。 |
特徴 | 粗めの陶土に、茶褐色の鉄釉で覆い、その上に藁や笹の灰から採った白釉や黄色釉を、スポイトや柄杓を使って流し掛けする、大胆かつ奔放な風合いの食器で知られる。釉薬と窯の温度等によって青小代や黄小代、白小代や飴小代という発色の色分けがなされる。小代焼は高温で焼成するため丈夫で、日用雑器を多く生産している。戦後は小岱山麓にいくつもの窯が築かれるようになった。2003年に経産省指定伝統的工芸品に指定された。 |
内田皿山焼【磁器】
産地 | 熊本県天草地方・内田皿山 |
歴史 | 九州最古の磁器産地で、17世紀まで遡る。周辺には窯跡が多く、無数の陶器片が出土。廃絶するが、1970年に復興。 |
特徴 | 天草陶磁器の一つ。1981年に熊本県の伝統工芸品となり、青磁や白磁、染付などが焼かれている。天草陶磁器は、豊富で良質な陶石と陶土の産地である天草地方で生産されているため質が高く人気がある。磁器は透き通るような白磁や柞灰を使った親しみのある風合いの製品が生産されている。 |
水の平焼【陶器】
産地 | 熊本県天草地方・水の平地区 |
歴史 | 1765年の開窯。 |
特徴 | 天草陶磁器の一つ。青黒い器肌が特色の海鼠釉を用いる陶器産地で、その元祖といわれる。赤海鼠は代表的釉薬。釉薬の二重掛けで、個性のある製品も生産されている。 |
高浜焼【磁器】
産地 | 熊本県天草地方・高浜地区 |
歴史 | 1762年の開窯で、地元高浜の庄屋、上田伝右衛門が肥前国から陶工を招いて、磁器を焼かせたのが始まりとされる。質が良かったため、長崎奉行の目に留まり、オランダ向けの輸出品を中心に焼いた。 |
特徴 | 天草陶磁器の一つ。復興後は、白い器肌に呉須で彩られた意匠が特徴。キリシタン文化を意識したデザインで知られる。 |
丸尾焼【陶器】
産地 | 熊本県天草地方・丸尾地区 |
歴史 | 江戸末期の開窯。生活にとけ込んだ民芸品を焼いた。 |
特徴 | 天草陶磁器の一つ。今日では形に囚われない様々な陶器を焼いている。 |
高田焼【陶器】
産地 | 熊本県八代市 |
歴史 | 初期は上野焼の手法を用いていたが、後に白土象嵌の技法を完成させた。白土象嵌とは、成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込み、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがある。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつ、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている。 |
特徴 | 高田焼【こうだやき】は、八代焼【やつしろやき】ともいい、一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特徴。陶器には珍しい象嵌【ぞうがん】を施すのも特徴。 |
大分県の焼き物
小鹿田焼【陶器】
産地 | 大分県日田市小鹿田皿山地区 |
歴史 | 小鹿田焼【おんたやき】は、黒木十兵衛が1705年に陶工・柳瀬三右衛門をこの地に招いて李朝系の登り窯を築造して開窯【かいよう】したのが始まりとされる。 |
特徴 | 小鹿田焼【おんたやき】は、現在も機械を使わず手作りが続けられている。その陶芸技法は国指定の重要無形文化財でもある。小鹿田焼の窯元は代々長子相続で技術を伝え、弟子を取らなかったため、小石原から伝わった伝統技法がよく保存されており、これが重要無形文化財に指定された大きな理由となった。現在の窯元全て(9軒)が開窯時から続く柳瀬家・黒木家・坂本家の子孫である。窯元は、共同で土採りを行い、作品には個人銘を入れないで、小鹿田焼の品質やイメージを守る取り組みを行っている。 |
私は30年以上も前のことであるが、小鹿田焼の窯元の一つである陶工・坂本晴蔵氏の窯元を見学させて頂いた経験がある。坂本家の窯元は、陶土から作っておられたのが印象深く残っている。
国の重要無形文化財に指定された陶芸技法で壺の制作工程の貴重な様子を私に見せて下さった陶工・坂本晴蔵氏に感謝したい。
小鹿田焼の陶芸技法は一子相伝で代々長子だけに相続されてきたという。それは坂本家でも例外ではない。坂本晴蔵氏の子・孫へとその伝統の陶芸技法は確実に伝承されていくことだろう。
鹿児島県の焼き物
薩摩焼【陶磁器】
産地 | 鹿児島県内 |
歴史 | 16世紀の末に薩摩藩17代藩主、島津義弘が慶長の役の際に陶工達を連れ帰り、地元で窯を築いたのが起源とされている。1867年のパリ万博に出品されると海外の人々にも反響を呼び、知名度は上昇した。 |
特徴 | 薩摩焼には、竪野系、龍門司系、苗代川系があり、白もん(白薩摩)と黒もん(黒薩摩)に大別される。白もんは豪華絢爛な色絵錦手の陶器で、黒もんは大衆向けの雑器である。白もんは、日置市の美山にある苗代川窯で焼かれていた陶器で、藩主向けの御用窯でもあったので、金・赤・緑・紫・黄など華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手が主流である。元々は苗代川焼と呼ばれていた陶器である。一方、黒もんは、鉄分含有量が多い土を用いるために黒い色をした陶器。特に、黒千代香/黒茶家【くろちょか】と呼ばれる素朴な土瓶は、焼酎を飲むときに使用される。 |
沖縄県の焼き物
壺屋焼【陶器】
産地 | 沖縄県那覇市壺屋地区等 |
歴史 | 現在の壺屋焼の形として作られ始めたのは、17世紀頃といわれており、沖縄でも随一の焼物産地となった。明治維新後に低迷したが、柳宗悦らの民藝運動によって再び注目が集まり、人気がでた。 |
特徴 | 沖縄を代表する陶器の名称で、登り窯を中心に灯油窯やガス窯なども用いながら伝統の技術と技法を受け継いでいる。「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付がされるものがあるに大別される。荒焼は、釉薬をかけずに、1000℃の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、見た目は荒い。シーサーの多くはこの荒焼である。一方、上焼【じょうやち】は、陶土に白土をかぶせて化粧し、色付けし釉薬を掛けて焼成したもの。多くは化粧後に彫刻紋様(釘彫り、もしくは線彫り)を施されるが、その他には、釉薬を垂らしながら描くイッチン、釘彫りしたあと面を削った面彫り、そこに白土を被せた象嵌などいくつかの手法がある。描かれる絵柄は、多岐にわたるが、魚紋は特に数多く、壷屋焼の象徴となっている。また数は多くないが、エキゾチックな異国船や異国人を描いたものもあり、異国人を描いたものはエジプト紋と呼ばれている。 |
名前が残る伝説的な焼き物
小樽焼【陶器】
産地 | 北海道小樽市入船 |
歴史 | 道内最古の小樽窯白勢陶園が、後継者難から107年にも及ぶ歴史に幕を閉じることになった(2007年10月)。小樽窯白勢陶園は、越後出身の白勢慎治氏が1900年(明治32年)に北海道小樽に渡り、花園町で窯を造り、鉢や壺などを焼いたことが始まりとされる。二代目清蔵氏が譲り受け、窯を入船町に移改築し、花瓶や生活雑器を焼いていた。三代目・白勢栄一氏は、工芸陶磁器を志していたとされる。第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)、自宅窯裏に防空壕を造るために地中を掘った際に、良質の土を発見した。この土の発見をきっかけに、これを原料とした粘土から、郷土小樽独自の作品が生まれることになったという。 |
特徴 | 小樽焼は、緑玉織部の透明感ある青緑色の釉薬を特徴とする。轆轤による手作りの湯のみやぐいのみなどが、小樽焼の特徴的な作品である。 |
札幌焼【陶器】
産地 | 北海道札幌市 |
歴史 | 札幌で陶器を焼いていた形跡がある。旭山記念公園の道路や駐車場を造成中に煉瓦製の登り窯が発掘されている。焼窯跡は遺跡として残されている。 |
特徴 | ー |
八戸焼【陶器】
産地 | 青森県八戸の山中 |
歴史 | 江戸時代末期まで八戸の山中で焼かれた。1975年(昭和50年)、渡辺昭山の手によって再興され、現在では八戸市内で採取した粘土に工夫を加え、百数十年前の八戸焼が再現されているという。 |
特徴 | 藩主御用達品であった津軽焼とは異なり、八戸焼【はちのへやき】は民窯(庶民のための焼き物)として親しまれていたと言われる。八戸焼の特徴は、独自の緑釉を使い、青森の自然を体現した緑色である。 |
深山焼【陶器】
産地 | 山形県白鷹町深山 |
歴史 | 米沢藩で19世紀前半に希少製品を焼いた。 |
特徴 | 深山焼は、米沢藩で希少製品を焼いた特殊な窯として有名。 |
三毳焼【陶器】
産地 | 栃木県三毳山周辺 |
歴史 | 三毳焼【みかもやき】は、平安時代頃から下野国分寺や国分尼寺の屋根瓦を焼いていたという。 |
特徴 | 鉄分が多い土で焼き上げた、素朴で温かみがあるのが特徴的と言われる。 |
自性寺焼【陶器】
産地 | 群馬県安中市下秋間自性寺 |
歴史 | 自性寺焼【じしょうじやき】は、江戸時代中期頃から明治38年頃まで安中市下秋間自性寺で焼かれていた焼物である。青木昇氏が当時の自性寺焼の陶片をもとに研究を重ね、下秋間から産出する陶土を用いて、自性寺焼を昭和54年(1979年)に復興させたと言われている。 |
特徴 | 安中市秋間地域で産出する良質陶土によって製作されていた。 |
飯能焼【陶器】
産地 | 埼玉県飯能市 |
歴史 | 飯能焼【はんのうやき】は、天保3年(1832年)から明治20年(1887年)頃まで生産されていた陶器とみられているが、正確な時代は判明していない。明治21年(1888年)発行の『大日本陶磁器窯元一覧』には「武蔵飯能焼」の記載があるという。近年、復興が図られ、幾つかの窯が設立されて作品が販売されているという。 |
特徴 | 飯能焼は耐火性の強い生活雑器が中心である。作風は、薄手の器で、絵柄を白絵土を絞って描かれている事を特徴とする。 |
今戸焼【陶磁器】
産地 | 東京都今戸や橋場周辺 |
歴史 | 江戸時代から明治時代にかけて、日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦などが生産されていたという。『本朝陶器攷證』によれば、幕末期には今戸焼を生産する家が約50軒ほどあったという。今戸焼が製造されている風景は浮世絵にも描かれている。歌川広重が『名所江戸百景』において今戸焼を製造している窯の様子を画面に描き込んでいるほか、歌川国芳も『東都名所』に今戸焼を題材にた「浅草今戸」を描いている。 |
特徴 | 今戸焼【いまどやき】は、素焼および楽焼の陶磁器である。 |
村松焼【陶器】
産地 | (新潟県)村松藩城下町松村 |
歴史 | 村松焼【むらまつやき】は天保12年~明治25年(1841年~1892年)まで現五泉市で焼かれた陶器である。陶工・道川忠治が海老屋三平のもとで大堀焼で得た技術を駆使して新たな製品を作った頃が村松焼の全盛期であったと推定されている。嘉永3年(1850年)春には海老屋三平に替わって忠治らが窯を維持したが、忠治も明治8年(1875年)に死去した。 |
特徴 | 製品はほとんど陶器であるが、一部半磁器質も作られている。製品は、各種類の日用品が主体であった。村松焼には胎土として二種類のものが使われていた。一つは小石や砂粒を多く含む土の様相を残したもので、もう一つは土が良く吟味され焼成も半磁器質にまで高められているものである。両者の差が時期差なのか同期の品質差を示すのかは不明である。釉薬としては鉄釉を掛けたものが多く、次いで藁灰に長石を混ぜた灰釉が多い。鉄釉の上に灰釉をワンポイント風に流し掛けをして飾ったものも散見される。 |
珠洲焼【陶器】
産地 | 石川県珠洲市付近 |
歴史 | 珠洲焼【すずやき】は、12世紀後半頃から15世紀末頃に生産された、中世の日本を代表する陶器の一つに数えられている。約400年前に忽然と姿を消した珠洲焼を1976年に珠洲市が復興させた。 |
特徴 | 古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器の技法を受け継いでいたという。石川県指定伝統的工芸品の指定を受けている。 |
御深井焼【陶器】
産地 | 愛知県 |
歴史 | 通常、江戸時代の美濃焼に属するものをいう。 |
特徴 | 御深井焼【おふけいやき】は、17世紀後半~18世紀に盛行した灰釉に長石を加えて透明度を高めた釉を施すと共に摺絵や型打ち(素地を型にはめて成形する技法)や貼付文などを用いた陶器類の呼称である。釉薬が溜まる箇所はガラス質で透明な緑色に見えることがある。 |
犬山焼【陶器】
産地 | 愛知県犬山市とその周辺 |
歴史 | 犬山焼【いぬやまやき】は、犬山市とその周辺地域にあった2つの窯(今井窯と丸山窯)で生産された陶器を指す。 |
特徴 | ー |
川名焼【磁器】
産地 | 愛知県川名の周辺 |
歴史 | 日本では江戸時代末に銅板による転写印刷が試みられた。陶器への転写印刷技術は一貫した品質のパターンの生産を可能にした。窯の大きさとコジャクインの生産量は少なく、販売数も商業的に限られていた。窯は1888年まで運営された。 |
特徴 | 川名焼【かわなやき】は、青と白の地物の形である「サムツケ」の転写印刷の技術を用いているのが特徴的である。透明な釉薬の下に青で装飾の転写印刷された装飾の入れ替えと磁器のカップやボトルなど小型の商品が生産されていたようだが、希少な大きなアイテムも存在した。パターンは青と白の一色の一枚組であった。銅板の転写印刷技術によって、ヨーロッパ風の女性、洋帆船、兵士などが描れていたという。 |
豊楽焼【陶器】
産地 | 愛知県名古屋市近郊 |
歴史 | 豊楽焼【ほうらく焼】は、江戸時代に大原藩に住んでいた陶工・片東理著(1708-1796)が創業した陶器である。 |
特徴 | ー |
湖南焼【陶器】
産地 | 滋賀県 |
歴史 | 湖南焼【こなんやき】は、1851年に永樂保全が開窯したことで始まる。1851~1854年のわずかな期間しか滋賀県大津市長等山下、札之辻、または園城寺下鹿関町地域で焼かれていない。落款印には永樂・河濱支流・三井御濱の押捺を持ち、保全が最後に築いた窯として近世陶磁史に名を残している。 |
特徴 | 湖南焼の特徴は、保全の個性的な創造力と云っても過言ではない。特筆すべき作風は金彩の作品が特に多い事である。豊富に金を使った事の意図は不明であるが、近世最後の名工としての自負ではないかと推察されている。遺跡となる保全の窯跡は未だ発見されないままである。 |
湖東焼【陶磁器】
産地 | 滋賀県 |
歴史 | 湖東焼【ことうやき】は、江戸時代後期に彦根藩で始まった陶芸および、それによって生産される陶磁器のことである。しかしながら、明治28年(1895年)までに全ての窯が閉鎖され、湖東焼は途絶した。 |
特徴 | 青磁、赤絵や赤絵金彩、色絵などで絵付けした磁器が多く、「沢山」や「湖東」の銘を記し、大阪を経由して江戸など全国へ販売された。 |
古曽部焼【陶器】
産地 | 大阪府五十嵐家・古曽部窯で焼かれた |
歴史 | 古曽部焼【こそべやき】は、江戸時代後期から大正時代にかけて摂津国古曽部村(現大阪府高槻市古曽部町)の五十嵐家の古曽部窯で生産された。作品は、古い順に古曽部焼、磊三古曽部【らいぞうこそべ】/復興古曽部、新古曽部に分かれる。 |
特徴 | 高取・唐津・高麗・南京・三島・高麗などの各地の作風を模倣した茶碗、水差し、香炉、菓子鉢、花器などの茶道具のほか、民窯として碗類・皿物・鉢物・徳利・火鉢・急須・杯どの日用雑器を生産した。日用雑器としては、淀川名物「くらわんか舟」の食器として使用された茶碗や海老絵小皿が代表的である。 |
尾戸焼【陶器】
産地 | 高知県土佐国尾戸(現高知市小津町) |
歴史 | 尾戸焼【おどやき】は、江戸時代に焼成された陶器。 |
特徴 | 尾戸【おど】は小津【おづ】が転訛したもの。 |
蒲池焼【土器】
産地 | 福岡県柳川市及び瀬高町地区 |
歴史 | 蒲池焼【かまちやき】は、「幻の土器」と称される。現存する作品が少なく、その技術も口伝であったため、ほとんど史料は残っていない。 |
特徴 | 色は黒、赤、白の3つであり、「雲華」や「繧繝」と呼ばれる黒や白の斑紋があるものもあり、色の違いは焼き方や土によって変わる。生の状態の時に椿の葉で磨いた後、松の木で焚いた900℃の窯で焼くことで、重厚な色合いができたという。 |
二川窯【陶磁器】
産地 | 福岡県二川地区 |
歴史 | 江戸時代末期頃、弓野焼の陶工米作によって始められた。二川焼では弓野焼に似た松絵の甕などが引き継がれたが、第二次世界大戦の終戦近くで廃絶した。 |
特徴 | 弓野焼の職人が指導したことから、弓野焼との差が小さく判別は困難だが、松絵の描き方や白化粧土の掛け方が弓野焼ほど精緻ではなく、用いる胎土にも違いがある。 |
弓野焼【陶磁器】
産地 | 佐賀県藤津群弓野 |
歴史 | 開窯は江戸時代の初頭頃とされるが、廃絶した。江戸時代の終期に、弓野焼の職人が福岡県みやま市に招かれ、「二川焼」として窯を再興した。二川焼では弓野焼に似た松絵の甕などが引き継がれた。 |
特徴 | 焼成温度が低くて、胎土が軟らかいために傷が入りやすいという特徴がある。松の絵が描かれた甕が多く、「弓野の松絵」として知られる。完全な形で現存するものは少ないため「幻の焼き物」とも言われる。弓野焼は、胎土に鉄分が多く、表面が茶色であるため、表面に白化粧土を刷毛掛けして白く塗って素地を作る。 下部には鉄釉を掛けて地面に見立てるか、鉄釉の上に白化粧土で波状文を描いて浜辺を表現し、その上に幹の太い老松を力強い線で大きく描く。 |
現川焼【陶器】
産地 | 長崎県内 |
歴史 | 現川焼【うつつがわやき】は、1691年から1748年頃までの約60年間焼き継がれた。 |
特徴 | 鉄分の濃い粘土、各種の化粧刷毛目、舟形・隅切などの大胆な器形、四季折々を描いた図柄の合致した姿は「西の仁清」「刷毛目文様の極致」と賞賛された。 |
その他の名前のみが残る焼き物
- 渋民焼【群馬県】
- 大多喜焼【千葉県】
- 三助焼【富山県】
- 越中丸山焼【富山県】
- 織田焼【福井県】
- 氷坂焼【福井県】
- 能穴焼【山梨県】
- 尾林焼【長野県】
- 天竜峡焼【長野県】
- 御浜焼【三重県】
- 下田焼【滋賀県】
- 八田焼【滋賀県】
- 吉向焼【大阪府】
- 王地山焼【兵庫県】
- 八鹿焼【兵庫県】
- 浦富焼【鳥取県】
- 上神焼【鳥取県】
- 法勝寺焼【鳥取県】
- 袖師焼【島根県】
- 母里焼【島根県】
- 楽山焼【島根県】
- 錦山焼【島根県】
- 八幡焼【島根県】
- 萬祥山焼【島根県】
- 御代焼【島根県】
- 江津焼【島根県】
- 姫谷焼【広島県】
- 堀越焼【山口県】
- 末田焼【山口県】
- 星里焼【山口県】
- 神懸焼【香川県】
- 岡本焼【香川県】
- 水月焼【愛媛県】
- 能茶山焼【高知県】
- 星野焼【福岡県】
- 志田焼【佐賀県】
- 都城焼【宮崎県】
- 小松原焼【宮崎県】
- 種子島焼【鹿児島県】