はじめに
日本全国には神社仏閣が多数鎮座するが、そのなかで最も多数を占める第1位が「八幡神社」であり、その数は全国に4809社もあるという。その次に多い2位は、「稲荷神社」の2652社、そして第3位は「熊野神社」の2132社ということである。
(引用:「日本に多い神社仏閣名 | 東洋経済オンライン)
確かに旅先で神社に参拝することがあるが、「稲荷神社」や「八幡神社」又は「八幡宮」を目にすることは多い。自分の経験から「稲荷神社」の方が多いのではないかと勝手に思っていたが、そうではないらしい。
そこで日本で法人登記している神社を系統別に集計してみると多い順に下記のようになった。
- 八幡神社(八幡宮、八幡社を含む)6,833社
- 神明社(神明神社、神明宮を含む)3,796社
- 天満宮(天神社、天満神社を含む)2,956社
- 稲荷神社(稲荷社を含む)2,851社
- 諏訪神社(諏訪社を含む)2,437社
- 熊野神社(熊野社を含む)2,321社
- 日吉・山王神社(日枝神社を含む)2,263社
- 白山神社(白山社を含む)1,797社
- 八坂神社 1,054社
- 春日神社 1,035社
- 愛宕神社 817社
- 住吉神社 556社
- 浅間神社 305社
- 金比羅神社 295社
- 秋葉神社 281社
- 阿蘇神社
尚、これらの統計はあくまでも法人登録している神社のみの数であって、世の中には法人登録されていない神社の数の方が多い。
そのことを念頭に入れておかないと実際に目にする肌感覚とのズレを感じてしまうだろう。つまり私が2位の神明社よりも稲荷神社の数の方が多いと感じるようにである。
何が言いたいかというとこの統計数字に囚われない方が良い。つまりは参考程度に考えておけばよいということであって、順位に大した意味はない。
そうは言ってはみたものの、これら上位16社ともいうべき神社について調べてみることにした。
<目次>
はじめに
【1位】八幡神社
- 宇佐神宮【大分県】
- 参拝したい八幡神社
【2位】神明社
- 天照大御神
- 伊勢神宮【三重県】
- 神宮の構成
- 皇大神宮(内宮)めぐり
- 豊受大神宮(外宮)めぐり
- 域外の別宮
- 大神宮
【3位】天満神社
- 大宰府天満宮【福岡県】
- 北野天満宮【京都府】
【4位】稲荷神社
- 伏見稲荷大社【京都府】
- 参拝したい稲荷神社
【5位】諏訪神社
- 諏訪大明神(健御名方神)
- 諏訪大社【長野県】
【6位】熊野神社
- 熊野本宮大社【和歌山県】
- 熊野速玉大社【和歌山県】
- 熊野那智大社【和歌山県】
- 上色見熊野座神社【熊本県】
【7位】日吉神社・山王神社
- 日吉大社【滋賀県】
【8位】白山神社
- 白山比咩神社【石川県】
【9位】八坂神社
- 八坂神社「祇園さん」【京都府】
【10位】春日神社
- 春日大社【奈良県】
【11位】愛宕神社
- 愛宕神社【京都府】
【12位】住吉神社
- 住吉大社【大阪府】
【13位】浅間神社
- 富士山本宮浅間大社【静岡県】
【14位】金比羅神社
- 金刀比羅宮【香川県】
【15位】秋葉神社
- 秋葉大権現(火之迦具土大神)
- 秋葉山本宮秋葉神社【静岡県】
【16位】阿蘇神社
- 阿蘇神社【熊本県】
あとがき
【1位】八幡神社
八幡神社は、八幡神を祭神として祀る神社で、八幡社または八幡宮と呼ばれる。全国各地に約40,600社もあるという八幡神社の総本宮が宇佐神宮(大分県宇佐市)である。
八幡神社は、大分県の宇佐の氏神から始まり、平安京の守り神として石清水八幡宮が創建された。鎌倉時代には源頼朝が鶴岡八幡宮を創建し、武運・鎮守の神として全国に広まった。
御祭神である八幡神は、応神天皇を神格化したもので、農耕神あるいは海の神とされている。応神天皇の妃である神功皇后も合祀されているところが多い。
宇佐神宮【大分県】
宇佐神宮(大分県宇佐市)は、4万社余りの八幡神社の総本宮で、御祭神は八幡大神、比売大神、神功皇后である。
八幡大神は、応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったと伝わる。
第15代応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた天皇である。その天皇が、725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りしたのが宇佐神宮の創建の起源だという。
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋(宇佐の御許山)に降臨されたと『日本書紀』に記されている。
比売大神とは、天照大御神と素戔嗚尊の誓約によって誕生したとされる神で、多岐津姫命【たぎつひめのみこと】・市杵嶋姫命【いちきしまひめのみこと】・多紀理姫命【たぎりひめのみこと】の三女神のことをいう。
比売大神は八幡神が現われる以前の神、地主神として祀られ崇敬されてきた。八幡神が祀られた8年後の733年(天平5年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りした。
三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立された。応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしている。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれている。
八幡大神の御神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は、東大寺の大仏建立や道鏡の神託事件の時に皇室を護ったことで朝廷から厚く信仰されてきた。
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社16社に列されている。
また皇室だけでなく、清和源氏をはじめ全国の武士も武運の神「弓矢八幡」として崇敬を寄せた。
勿論、一般の人々にも鎮守の神として親しまれてきました。仏教の世界でも八幡大菩薩として崇められ、元寇の時に神風を吹かせた神は八幡大神であるとされている。
八幡信仰とは、応神天皇の聖徳を八幡神として称えると共に、仏教文化と、日本固有の神道を習合したものと考えられている。
その長い信仰の歴史は、宇佐神宮の神事や祭会、建造物や宝物などに強く伝承されている。
参拝したい八幡神社
私が是非とも参拝してみたい八幡神社をリストアップしてみた。
八幡神社 | 社歴 | 所在地 | 特記事項 |
---|---|---|---|
鶴岡八幡宮 | 960+ | 神奈川県鎌倉市 | 大石段/太鼓橋/源平池 |
富岡八幡宮 | 390+ | 東京都江東区 | 8月祭礼/深川八幡祭 |
石清水八幡宮 | 1160+ | 京都府八幡市 | 建造物10棟が国宝 |
筥崎宮 | 1100+ | 福岡県福岡市 | 日本三大八幡宮 |
鹿児島神宮 | 1300+ | 鹿児島県霧島市 | 旧「大隅正八幡宮」 |
【2位】神明社
神明社【しんめいしゃ】とは、伊勢神宮を総本社とし、 天照大御神 を主祭神として祀る神社のことを指す。
神明神社、皇大神社、天祖神社などともいう。通称として「お伊勢さん」と呼ばれることがある。
伊勢信仰は、伊勢の神宮に対する主として庶民の信仰をいう。祭神の 天照大御神が皇室の祖神とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき、信仰を広く集めてきた。そのため神明社と呼ばれる神社は全国に約5400社もあるという。
天照大御神
まだ日本という国がなかった頃、「国生みの神」と呼ばれるイザナギとイザナミによって多くの神々が誕生した。イザナギの左目から生まれたのが、八百万の神々で最高位に位置する神がアマテラスであるという。
その後、高天原と呼ばれる天上世界を治め、太陽を司る神となる。スサノオの乱暴によって「天の岩戸」に身を隠したとき、世界は闇に覆われたとされる。
アマテラスは、天皇の祖神であり、日本で最も重要な神様である。日本最古の史記である古事記や日本書紀にも当然ながら登場する。古事記では「天照大御神」、日本書紀では「天照大神」と表記されている。
アマテラスが天の岩戸に身を隠したとき、八百万の神々が集まり策を考えた場所とされる
太陽は、万物すべてに光を与え包み込むことから、あらゆる願い事を聞き届けるというアマテラスは、「所願成就」の神様として知られる。そのため伊勢の神宮の内宮をはじめ全国各地の神社に祀られている。
特に、伊勢の神宮は鎮座より2000年の歴史を誇り、内宮と外宮の正宮を中心に、全部で125社から構成される日本最大の神社である。20年に一度、正殿を立替えて神様の御神体を遷す、いわゆる「式年遷宮」が行われることでも有名である。
伊勢神宮【三重県】
伊勢神宮は特別な神社であるという。妻の話によれば、神社で御朱印帳を新しく購入し、そこで御朱印を頼むと 第2ページ目に御朱印を書いてくれるそうである。
第1ページ目は伊勢神宮での参拝時のために空けておいてくれるというのである。この話は妻が新しく御朱印帳を購入するたびに妻から聞かされる。
伊勢神宮が特別な神社であるというエピソードは他にもある。
由緒ある神社の境内には立派な御神木があり、その御神木は大抵は一本である場合が多い。そして境内の他の樹木とは異なり、御神木だけが特別扱いされている。
ところが、伊勢神宮においては境内に生えている全ての樹木が御神木であるという。 最強パワースポットの証といえよう。
そもそも伊勢神宮の正式名称は地名(伊勢)を冠しない「神宮」であり、本来は「伊勢の神宮」なのである。他の神宮と区別するために伊勢神宮と通称されているだけである。
「伊勢の神宮」は神社本庁の本宗であり、全神社の上に位置する神社として社格の対象外とされてきた神社である。
神宮の構成
伊勢神宮は、皇大神宮(内宮;ないくう)と 豊受大神宮(外宮;げくう)を御正宮(ごしょうぐう)とし、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社の合計125の宮社から成り立っている。
内宮の祭神は、皇室の御祖先の神と仰ぎ、日本国民の大御祖神として崇敬を集める天照座皇大御神 (アマテラスオオミカミ、天照大御神) である。
日本神話の一つ「天岩⼾神話」で万物に光明をもたらす太陽にも例えられる有名な神様である。
一方、外宮の祭神は衣食住をはじめ、あらゆる産業の守り神とされる豊受大御神 (トヨウケノオオミカミ)である。
20年に1度社殿を建て替える神宮式年遷宮は、わが国で最も重要な祭事の一つとなっている。
別宮(べつぐう)は、正宮の「わけみや」の意味で、正宮と関わりの深い神を祭る格の高いお宮である。別宮は計14所あり、皇大神宮(内宮)に10所、豊受大神宮(外宮)に4所ある。
摂社(せっしゃ)は、延喜式神名帳(927年)に記載されている神社であり、皇大神宮(内宮)に27社、豊受大神宮(外宮)に16社が祭られている。
末社(まっしゃ)は、延暦儀式帳(804年)に記載されている神社である。皇大神宮(内宮)に16社、豊受大神宮(外宮)に8社が祭られている。
所管社(しょかんしゃ)は、御正宮や別宮に直接かかわりがあり、井戸や酒、米、塩、麻、絹など衣食住をつかさどる神々が多く祭られており、皇大神宮(内宮)に30社、豊受大神宮(外宮)に4社、別宮の瀧原宮に3社、伊雑宮に5社が祭られている。
皇大神宮(内宮)めぐり
伊勢神宮には何度か参拝させて頂いているが、皇大神宮(内宮)しかお参りしていないことに気付いた。
豊受大神宮(外宮)を参拝して後に内宮を参拝するのが正しい参拝の順序であるという。次回からは気をつけたいと思う。
ただ伊勢神宮は広大であり、外宮と内宮の距離は約5.5 kmもあり、徒歩でいくには正直、躊躇する距離だ。
宮社 | 神社名 | 読み | 主祭神 |
---|---|---|---|
摂社 | 津長神社 | つながじんじゃ | 栖長比賣命 |
末社 | 新川神社 | にいかわじんじゃ | 新川比賣命 |
末社 | 石井神社 | いわいじんじゃ | 高水上命 |
所管社 | 饗土橋姫神社 | あえどはしひめ | 宇治橋鎮守神 |
摂社 | 大水神社 | おおみず じんじゃ | 大山祇御祖命 |
末社 | 川相神社 | かわあいじんじゃ | 細川水神 |
末社 | 熊淵神社 | くまぶちじんじゃ | 多支大刀自神 |
所管社 | 子安神社 | こやすじんじゃ | 木華開耶姫命 |
所管社 | 大山祇神社 | おおやまつみ | 大山祇神 |
所管社 | 瀧祭神 | たきまつりのかみ | 瀧祭大神 |
別宮 | 風日祈宮 | かざひのみのみや | 級長津彦命、 級長戸辺命 |
所管社 | 四至神 | みやのめぐりのかみ | 四至神 |
御正宮 | 皇大神宮 | こうたいじんぐう | 天照座皇大御神 |
所管社 | 興玉神 | おきたまのかみ | 興玉神 |
所管社 | 宮比神 | みやびのかみ | 宮比神 |
所管社 | 屋乃波比伎神 | やのはひきのかみ | 屋乃波比伎神 |
所管社 | 御稲御倉 | みしねのみくら | 御稲御倉神 |
別宮 | 荒祭宮 | あらまつりのみや | 天照大御神荒御魂 |
所管社 | 由貴御倉 | ゆきのみくら | 由貴御倉神 |
所管社 | 御酒殿神 | みさかどののかみ | 御酒殿神 |
豊受大神宮(外宮)めぐり
私は、外宮に参拝した経験が実は一度もない。次回は是非、参拝してから内宮を参拝することにしようと思う。
宮社 | 神社名 | 読み | 主祭神 |
---|---|---|---|
摂社 | 宇須乃野神社 | うすのの | 宇須乃女命 |
末社 | 縣神社 | あがたじんじゃ | 縣神 |
別宮 | 月夜見宮 | つきよみのみや | 月夜見尊、月夜見尊荒御魂 |
摂社 | 高河原神社 | たかがわら | 月夜見尊御魂 |
摂社 | 度会国御神社 | わたらいくにみ | 彦國見賀岐建與束命 |
末社 | 大津神社 | おおつじんじゃ | 葦原神 |
所管社 | 上御井神社 | かみのみいの | 上御井鎮守神 |
所管社 | 御酒殿 | みさかどの | 御酒殿神 |
所管社 | 四至神 | みやのめぐりの | 四至神 |
御正宮 | 豊受大神宮 | とようけだい | 豊受大御神 |
別宮 | 多賀宮 | たかのみや | 豊受大御神 荒御魂 |
所管社 | 下御井神社 | しものみいの | 下御井鎮守神 |
別宮 | 土宮 | つちのみや | 大土乃御祖神 |
別宮 | 風宮 | かぜのみや | 級長津彦命、 級長戸辺命 |
摂社 | 度会大国玉比賣神社 | わたらいおおくにたまひめ | 大国玉命、 弥豆佐佐良比賣命 |
末社 | 伊我理神社 | いがりじんじゃ | 伊我利比女命 |
末社 | 井中神社 | いなかじんじゃ | 井中神 |
摂社 | 山末神社 | やまずえ | 大山津姫命 |
摂社 | 田上大水神社 | たのえおおみず | 小事神主 |
摂社 | 田上大水御前神社 | たのえおおみずみまえ | 宮子 |
域外の別宮
別宮は、正宮に次ぐ格の高いお宮であり、合計14所ある別宮の内、9所は伊勢市内・市外の域外に鎮座している。
宮社 | 神社名 | 読み | 主祭神 |
---|---|---|---|
内宮別宮 | ⽉読宮 | つきよみのみや | ⽉読尊 |
内宮別宮 | ⽉読荒御魂宮 | つきよみあらみたま | ⽉読尊荒御魂 |
内宮別宮 | 伊佐奈岐宮 | いざなぎのみや | 伊弉諾尊 |
内宮別宮 | 伊佐奈弥宮 | いざなみのみや | 伊弉冉尊 |
内宮別宮 | 瀧原宮 | たきはらのみや | 天照大御神御魂 |
内宮別宮 | 瀧原並宮 | たきはらならび | 天照大御神御魂 |
内宮別宮 | 伊雑宮 | いざわのみや | 天照大御神御魂 |
内宮別宮 | 倭姫宮 | やまとひめのみや | 倭姫命 |
外宮別宮 | ⽉夜⾒宮 | つきよみのみや | 月夜見尊 |
大神宮
「大神宮(だいじんぐう)」という社号は、伊勢神宮の出張機関というべき、東京大神宮の特別な社号である。東京大神宮は伊勢神宮の天照大御神と豊受大神を勧請されており、まさしく伊勢神宮の出張機関ともいえる。
江戸時代には、「東海道中膝栗毛」でも旅の主目的として描かれているように伊勢神宮への参拝は生涯かけての願いであった。
江戸から伊勢は非常に遠く、道なりは厳しいものであったため、明治天皇の判断で東京大神宮が、伊勢神宮の遙拝殿としてつくられ、「東のお伊勢さん」と呼ばれるほど人々に親しまれるようになった。
【3位】天満宮
天満宮【てんまんぐう】、天神社【てんじんしゃ】は、平安時代の学者である菅原道真を祭神とする神社で、政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになったのが起源とされる。
天満・天神は、天満大自在天神の略称である。 道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」や「受験の神様」として現在も信仰され、全国に約12,000社もの天満宮があるという。
大宰府天満宮【福岡県】
太宰府天満宮(福岡県太宰府市)は、菅原道真公の御墓所の上に社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社である。
全国に約12,000社あるとされる天満宮・天神社の総本宮である。「学問・至誠・厄除けの神様」として、広く世のご崇敬を集めている。年間に約1000万人の参拝者が訪れているという。
菅原道真は、承和12年(845年)に京都で生まれた。幼少期より学問の才能を発揮し、努力を重ねることで、一流の学者・政治家・文人として活躍した。
情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でもあった。
学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真は、昌泰2年(899年)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括した。
ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901年)に大宰権帥に左遷された。 つまり京都から大宰府に流された。 そのわずか2年後の 延喜3年(903年)2月25日、道真は住居の大宰府政庁の南館(現在の榎社)で波乱の生涯を閉じた。
門弟の味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなった。これは道真の御心によるものであろうと考え、その地に埋葬することにした。
延喜5年(905年)、墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919年)には勅命により立派な社殿が建立された。
その後、道真の無実が証明され、「天満大自在天神」という神号が贈られ、「天神さま」と崇められるようになった。
平安時代から現在に至るまで、その時代の人々と共にさまざまな天神信仰が息づいており、「学問・至誠・厄除けの神様」として広く崇敬を集めている。
北野天満宮【京都府】
北野天満宮(京都市)は、菅原道真公を御祭神として祀る全国に約1,2000社あるとされる天満宮・天神社の総本社である。
天神信仰の発祥の地であり、親しみをこめて「北野の天神さん」と呼ばれている。
北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947年)に、当時の有力者が当所に神殿を建て、菅原道真をお祀りしたのが起源とされる。
その後、藤原氏による大規模な社殿の造営があり、永延元年(987年)には一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念された。この時から「北野天満天神」の神号が認められた。
寛弘元年(1004年)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室の御崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められた。
江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがお祀りされたり、道真のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られてきた。
このことが後に「学問の神さま」・「芸能の神さま」として広く知られるようになった所以である。現在、全国各地には天満宮・天神社が約1,2000社あると言われるが、その多くは北野天満宮から御霊分けをした神社であるという。
北野の地は、都(平安京)の守護をつかさどる四方(北東、北西、南東、南西)の北西、「乾」の地として大変重要な場所とされ、天地すべての神々「天神地祇」をお祀りした地主社が建てられた。
この神社に向けて帝が大極殿から祈りを捧げられるとき、北野の上空には北極星が輝き、日・月・星の運行が天皇・国家・国民の平和と安寧にかかわるとする「三辰信仰」と結びついて、北野は「天のエネルギーが満ちる聖地」として篤く信仰されるようになった。
そして道真公がお祀りされると霊験はさらに増し、北野天満宮は天空を司る「天神」の社となって「天神信仰」発祥の地と呼ばれるようになった。
道真の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められ、現代でも盛んな信仰へと展開した。
また、「文道の大祖・風月の本主」と仰ぎ慕われ、学問の神さまとしての信仰は昔も今も変わることなく、人々の生活のなかで受け継がれている。
道真の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴である。
道真が生涯一貫した「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけているという。
【4位】稲荷神社
稲荷神/宇迦之御魂神【ウカノミタマノカミ】を御祭神として祀る神社を稲荷神社と呼び、全国各地に約 30,000社が存在するといわれている。
国内の神社数は、稲荷神社が最多であるらしい。稲荷神社の総本社は、伏見稲荷大社(京都市)である。
稲荷神は、稲の信仰(穀物・農業・商売繁盛・殖産興業)の神として信仰されていて、商店内、企業のビルの屋上、工場の敷地内などにも祀られている。
稲荷は、イネナリ(稲成)という意味で、稲は一粒の米からたくさんの実がなることから、商売繁盛・産業隆盛の神様としても信仰されるようになったと言われている。
稲荷神社の狐は「稲荷神の使い」とされている。その起源は、稲荷神は元々は農業神であるが、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いに位置付けられたためだとされる。
伏見稲荷大社【京都府】
伏見稲荷大社(京都市)は、全国に約30,000社もあるといわれる、最も身近な神社「お稲荷さん」の総本宮である。
稲荷信仰の原点は稲荷山にあるという。御祭神の稲荷大神が稲荷山に鎮座したのは1300年以上も前の奈良時代、和銅4年(711年)であると伝わる。
和銅4年(711年)に鎮座された由縁として、この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名山大川に遣わされて祈請させたところ神の教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそが和銅4年の2月初午であった、との伝承がある。
御鎮座以来、各時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されようになったという。
参拝したい稲荷神社
私が参拝してみたい稲荷神社をリストアップしてみた。稲荷神社には必ず朱塗りの鳥居があり、「映える」写真が撮れるので楽しい。
稲荷神社名 | 社歴 | 所在地 | 特記事項 |
---|---|---|---|
志和稲荷神社 | 960+ | 岩手県紫波町 | 樹齢1000年神木 |
竹駒神社 | 1180+ | 宮城県岩沼市 | 倉稲魂神他二神 |
福島稲荷神社 | 1030+ | 福島県福島市 | 木造「御神狐」 |
笠間稲荷神社 | 1350+ | 茨城県笠間市 | 樹齢400年藤樹 |
箭弓稲荷神社 | 1300+ | 埼玉県東松山市 | 武蔵国最古稲荷 |
鼻顔稲荷神社 | 440+ | 長野県佐久市 | 縁日のダルマ市 |
豊川稲荷 | 570+ | 愛知県豊川市 | 「千本のぼり」 |
千代保稲荷神社 | 550+ | 岐阜県海津市 | 油揚げの奉納 |
瓢箪山稲荷神社 | 440 | 大阪府東大阪市 | 「辻占」総本山 |
玉造稲荷神社 | 2030+ | 大阪府大阪市 | 豊臣秀頼公銅像 |
源九郎稲荷神社 | 300+ | 奈良県大和郡山市 | 「白狐源九郎」 |
最上稲荷山妙教寺 | 1200+ | 岡山県岡山市 | 神仏両祀、鳥居 |
草戸稲荷神社 | 1200+ | 広島県福山市 | 太鼓橋と社殿 |
太皷谷稲成神社 | 250 | 島根県津和野町 | 鳥居数約1,000本 |
伊豫稲荷神社 | 1200+ | 愛媛県伊予市 | 亀石・夜泣き石 |
祐徳稲荷神社 | 330+ | 佐賀県鹿島市 | 山肌に立つ社殿 |
髙橋稲荷神社 | 520+ | 熊本県熊本市 | 九州三大稲荷 |
扇森稲荷神社 | 400+ | 大分県竹田市 | 境内へ100段石段 |
太字は参拝したことがあるお勧めの稲荷神社
【5位】諏訪神社
諏訪神社(すわじんじゃ)は、諏訪大社より祭神の勧請を受けた神社で、全国に約5,700社もあるとされる。
諏訪大明神は古くから風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神として、また武勇の神として広く信仰され、現在では生命の根源・生活の源を守る神として崇められている。
したがって、全国の諏訪神社を中心とする諏訪信仰も雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名であるという。また、水の信仰が海の守り神としても信仰されているという。
諏訪大明神(健御名方神)
御祭神の諏訪大明神は、健御名方神【タケミナカタノカミ】のことであり、大国主大神の御子とされる神である。古事記には「国譲り」の神話の中に下記のような一説が記されている。
大国主神は「私の子に建御名方神【タケミナカタノカミ】が居ます。これ以外には意見を言う子供はいません」と言った。
建御名方神が千引の石(=大きな岩)を持って来て「誰が私の国に来て、ひそひそと話をするのか!それならば力比べをしよう!まず私が先に掴んでみよう!」と言った。
建御名方神が建御雷神の手を取ると、建御雷神の手がツララになり、剣刃となってしまった。建御名方神は恐れをなして引き下がるしかなかった。
今度は、建御雷神が建御名方神の手を取ると、若い葦を掴むように、握りつぶして放り投げた。建御名方神はすぐに逃げ去った。
建御雷神は建御名方神を追いかけた。科野国(=信濃国)の州羽(=諏訪)の海に追い詰めて、殺そうとしたとき、建御名方神が
「恐れいりました。私を殺さないでください。この諏訪の土地からは出て行きません。私の父、大国主神の命令には背きません。
八重事代主神の言葉にも背きません。この葦原中国は天津神の御子に命ずるままに献上いたしましょう」と言った。
諏訪大社【長野県】
諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社である。信濃國一之宮で、神位は正一位である。
全国各地にある諏訪神社約5,700社の総本社であり、国内最古の神社の一つとされる。
諏訪大社の御祭神は、諏訪大明神ともいわれる健御名方神(タケミナカタ)と その妃である八坂刀売神(ヤサカトメノミコト)であるとされているが、諏訪大社の公式HPには詳細に記載されていない。
諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がないことが特徴として挙げられる。
代りに秋宮は一位の木を、春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体としている。
古代の神社には社殿がなかったとも伝わるので、諏訪大社はその古くからの姿を現在に残している数少ない神社といえる。
国内最古の神社される所以である。
【6位】熊野神社
熊野神社【くまのじんじゃ】は、熊野三山から熊野権現の勧請を受けた神社で、全国各地に約4,700社もあるという。熊野神社は、熊野社などのように類似の社号で称されている場合もある。
熊野は、和歌山県南部~三重県南部の地域を指す。和歌山県南部にある、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山という。
熊野三山へ参拝するための道を熊野古道という。熊野の神々は自然信仰に根ざしていたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まった。
その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をお祀りするようになる。熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族が参拝するようになった。
浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味する。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めている。
熊野本宮大社【和歌山県】
熊野本宮大社(和歌山県田辺市)は熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の中心、全国に4700社以上ある熊野神社の総本宮である。
御祭神は、熊野三山に共通する熊野十二所権現と呼ばれる十二柱の神々である。 奈良時代より神仏習合を取り入れ、御祭神に仏名を配するようになったとされる。
熊野本宮大社(田辺市)の主祭神は、家津美御子大神【けつみみこのおおかみ=素戔嗚尊(スサノオノミコト)】である。
日本神話では、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられている。三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿を建てたは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことであったと伝わる。
本宮の上四社の第一殿と第二殿にはそれぞれ伊邪那美神(夫須美大神)と 伊邪那岐神(速玉大神)が祀られている。
御祭神は、熊野三山に共通する熊野十二所権現と呼ばれる十二柱の神々である。 奈良時代より神仏習合を取り入れ、御祭神に仏名を配するようになったとされる。
奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としてお祀りするようになった(神仏習合)。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れた。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていった。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどであったと伝わる。
熊野本宮大社には八咫烏【やたがらす】と呼ばれる3本足のカラスがいたるところに配置されている。
八咫烏は、日本書紀・古事記の「神武東征」という物語に登場する。
「神武東征」とは、神武天皇が 日向(現在の宮崎県)から橿原(現在の奈良県)に遷都し、大和朝廷を開いて初代天皇に即位するまでを描いた物語のことである。
神武天皇が熊野に到着された時、神の使者である八咫烏が奈良まで道案内をしたというエピソードから、熊野三山に共通する「導きの神鳥」として信仰されるようになったと伝承されている。
八咫烏は日本サッカー協会のシンボルとして全国的にも有名になっている。
熊野速玉大社【和歌山県】
熊野速玉大社(新宮市)所蔵の「熊野権現御垂迹縁起」(1164年)によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されている。
初めは二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀ることから始まり、平安時代初期に現在のような十二の神殿が完成したと伝わる。
日本書紀には、神武天皇が神倉山に登拝されたことが記されているという。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰(原始信仰)が中心であったと考えられる。
自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていく。
「権現」とは、神が仮の姿を仏に変えて衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられていった。
さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれた。
熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道であり、険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだという。
そんな参拝者を熊野の神官達は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま快く拝殿に迎え入れたという。これを「濡れわら沓の入堂」といい、熊野速玉大社の社訓になっているという。
熊野は生きる力を、もう一度受け取りに来るところとされる。命がけの旅は、私達が生まれた時に持っていたはずの純真なこころと姿を取り戻す試練の旅でもある。
難行苦行の果てにあるものは、人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護である。熊野速玉大社が「甦りの地」といわれる本意は、正にここにあるとされる。
熊野那智大社【和歌山県】
熊野那智大社(那智勝浦町)の御祭神は、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)で、イザナギノミコトの別名である。 またの名を「結神(ムスヒノカミ)ともいう。
「ムス」は万物の生成・育成を意味し、「ヒ」は目に見えない存在を意味するという。御神徳によって「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められた。
熊野那智大社は、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)の御東征を起源としている。
西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸した。一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあて、その御瀧を大己貴命(オオナムチノミコト)の現れたる御神体としてお祀りした。
神日本磐余彦命の一行は、天照大神から使わされた八咫烏の先導によって無事、大和の橿原の地へ入り、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位した。
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、石に姿を変えて休んでいる(烏石)と伝わる 。
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本に祀られた。
仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々と御瀧の神を祀ったのが熊野那智大社の起源だという。
那智の御瀧は、熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体として祀られている。那智の御瀧は、自然を尊び、延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈願されている。
さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められている。
このように熊野那智大社は熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社である。
上色見熊野座神社【熊本県】
上色見熊野座神社【かみしきみくまのいますじんじゃ】(熊本県高森町)の御祭神は、伊邪那岐神と伊邪那美神の二神である。
阿蘇大明神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)の荒魂と石君大将軍( いわぎみたいしょうぐん )も祀られている。
創設は相当古く、紀州熊野より移したものと云う。南郷の総鎮守として祭祀されて来たが、従前の建物は天正年間に兵火により頽廃したという。
現在の社殿は、約300年前の享保七年(1723年)に建立されたものであるという。
【7位】日吉神社・山王神社
日吉神社【ひよしじんじゃ】あるいは山王神社【さんのうじんじゃ】は、山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、全国各地に 約3,800社があるとされる。
御祭神は、大山咋神【オオヤマクイノカミ】と大国主神である。
「山王」とは、霊山を守護する神霊のことで、ここでは比叡山の地主神である大山咋神のことを指す。
また、平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。
日吉大社【滋賀県】
日吉大社(滋賀県大津市)は、比叡山の麓に鎮座し、全国3800余の日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮で、約2100年前の崇神天皇7年に創祀された。
平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれてよりは天台宗の護法神として崇敬を受けて、今日に至る。
日吉大社には約40の社があり、全ての神様を総称して「日吉大神」と呼ぶ。大社の中心となるのが山王七社である。
山王七社 | 御祭神 |
---|---|
西本宮 | 大己貴神【オオナムチノカミ】 |
東本宮 | 大山咋神【オオヤマクイノカミ】 |
宇佐宮 | 田心姫神【タゴリヒメノカミ】 |
牛尾宮 | 大山咋神荒魂【オオヤマクイノカミノアラミタマ】 |
白山宮 | 菊理姫神【ククリヒメノカミ】 |
樹下宮 | 鴨玉依姫神【カモタマヨリヒメノカミ】 |
三宮宮 | 鴨玉依姫神荒魂【カモタマヨリヒメノカミノアラミタマ】 |
日吉大神の御神徳は、方除け・厄除け・縁結び・家内安全・夫婦和合・商売繁盛等である。
方除・厄除の大社を語る上で欠かせないのが、神の使いとされる「神猿(まさる)」である。
元来、比叡山には猿が多く生息していたが、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになった。
「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じるようにつけられた名前であり、縁起のよいお猿さんである。
【8位】白山神社
白山神社【しらやまじんじゃ・はくさんじんじゃ】は、富士山、立山とともに三霊山と呼ばれる白山の神を祀る神社で、全国各地に約3,000社もあるという。
特に、岐阜県・石川県・新潟県・静岡県の4県に多く建立されている。白山神社の総本社は、白山比咩神社(石川県白山市)である。
白山比咩神社【石川県】
石川、福井、岐阜の3県にわたり高くそびえる白山は、最高峰の御前峰(標高2702m)を中心に、大汝峰(2684m)、剣ヶ峰(2677m)、別山(2399m)を主峰とする峰々の総称である。
白山は、古くから霊山信仰の聖地として仰がれてきた。山麓に暮らす人々や遥かに秀麗な山容を望む平野部の人々にとって、白山は聖域であり、生活に不可欠な「命の水」を供給してくれる神々の座であった。
やがて山への信仰は、登拝という形に変化し、山頂に至る登山道が開かれた。
加賀(石川県)の登拝の拠点として御鎮座2100年を越える白山比咩神社は、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮である。
本宮および奥宮の所在地は下記のとおりである。
本宮 石川県白山市三宮町ニ105-1
奥宮 石川県白山市白峰白山嶺上(白山国立公園)
御祭神は、白山比咩大神(シラヤマヒメノオオカミ)=菊理媛尊(ククリヒメノミコト)、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)の三柱である。
日本書紀によれば天地が分かれ始めた頃、天界である高天原に、次々と神が出現し、最後に現れたのが伊弉諾尊と伊弉冉尊であった。
この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられた。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えに行った。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追った。
黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の仲裁をし、その後、天照大御神(アマテラスオオミカミ)や月読尊(ツクヨミノミコト)、須佐之男尊(スサノオノミコト)が生れる。
白山比咩神社では、菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られている。
菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けている。
【9位】八坂神社
八坂神社【やさかじんじや】は、素戔嗚尊命【スサノオノミコト】を御祭神とする神社で、全国各地に約2,900社もあるという。
総本社は、八坂神社(京都市)で、「祇園さん」として古くより京都の人々に親しまれてきた。
平安時代初期に都で流行した疫病による大災厄の発生を政治的に失脚して処刑された人の怨みによる崇りであろうと当時の人々は考えたようだ。
最初はその御霊を祭ったが、怒りを鎮められなかった(すなわち 災厄を回避することができなかった)ので、より強い神仏が求められた。
そこで日本神話で 八岐大蛇 (ヤマタノオロチ=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらしたとされる素戔嗚尊命を祭ったのが起源とされている。
災厄を鎮める神様として全国的に知られ、信仰が厚い。
日本三大祭の一つとして有名な祇園祭は、疫病が鎮まるようにとの祈りを込めて約1150年前(平安時代)にはじまった八坂神社の祭礼である。
八坂神社の主祭神・素戔嗚尊は、往古牛頭天王【ごずてんのう】とも称し、また薬師如来を本地仏として、人々の疫病消除の祈りを聞き届け、多くの祈りはやがて祇園信仰となった。
八坂神社では今も祭礼を通して氏子の暮らしに息づく祇園信仰を要に、神仏が相和して人々の祈りに応えた時代に照らしながら、人々の心豊かな生活に寄り添っている。
【10位】春日神社
春日神社【かすがじんじゃ】は、春日大社(奈良市)から勧請を受けた神社で、全国各地に約3,000社あるという。
春日神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)
春日大社の御祭神は、春日神である。
奈良時代の神護景雲2年(768)、春日の御蓋山(みかさやま)の麓に、勅命により四柱の神、武甕槌命(タケミカヅチオ)、経津主命(フツヌシノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメノカミ)の 御本殿を造営し、春日神として祭ったのが起源である。
春日大社【奈良県】
春日大社の境内には平安時代より奉納の始まった約3000基の燈籠がある。古いものでは300年以上の時を経たものも多数あり、社寺の参道に燈籠を並べる風習は 春日大社から始まったと伝わる。
全国にある室町時代の燈籠の約7割が春日大社の境内にあるとされる。燈籠には毎晩火が入り、そのゆらめく明かりで幽玄な世界が広がったとされる。正に神の住まう聖域であったと思われる。
春日山(御蓋山)は神山であり、春日大神の神域を守るために平安時代に狩猟伐木禁止の太政官符が朝廷より出された。
それ以降、現在まで原生林として保たれている。春日大神の下で原生林の自然と「神鹿」を始めとする動物と人間が共生する世界が残されている。
奈良時代に春日大神が常陸国から御蓋山へお越しになる時、白鹿にお乗りになって来られたことから、春日神鹿は春日大神のお供であり、神の使いとして大切に扱われるようになった。
現在、奈良公園を中心とした地域に約1,300頭の鹿が生活している。このような所は他所にはなく、日本のみならず世界的にも珍しい。春日山原始林と奈良の鹿は、ともに国の特別天然記念物に指定されている。
【11位】愛宕神社
愛宕神社(京都府京都市右京区)は、全国に約900社もあるとされる愛宕神社の総本社である。
旧称は阿多古神社と称され、現在は「愛宕さん」と親しみを込めて呼ばれる。
愛宕神社は、山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂に鎮座しており、古くから比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。
愛宕神社の創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると、大宝年間(701~704年)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立したのが起源とされる。
その後、天応元年(781年)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えれられる。
早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山や比良山等と共に七高山の一つに数えられた。
神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していた。
しかし、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っている。
愛宕神社は、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られている。
愛宕神社の火伏札には 「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれており、京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房、会社の給湯室などに貼られているという。
また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝する(三歳詣り)と一生火事に遭わないと伝わる。
愛宕神社は、上方落語にも「愛宕山」や「いらちの愛宕詣り」という噺に登場するくらい京都府内はもとより近畿地方では特に有名な神社であるといえよう。
【12位】住吉神社
住吉神社【すみよしじんじゃ】は、 住吉大社(大阪市)より御祭神の住吉三神の勧請を受けた神社で、全国各地に約2,100社があるという。
住吉三神とは、底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)の三神を指す。海の神・航海の神とされている。
住吉大社【大阪府】
住吉大社(大阪市)は、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりがある。
神功皇后は、住吉大神の加護を得て強大な新羅を平定せられ無事帰還を果たす。この凱旋の途中、住吉大神の神託によって現在の住吉の地に鎮斎された。後に神功皇后も併せ祀られた。
住吉大社の御祭神は、伊弉諾尊(イザナギ)が禊祓(みそぎはらえ)を行なった際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神(住吉三神)に神功皇后を加えた四神である。
イザナギは、火神の出産で亡くなったイザナミを追い求め、黄泉の国に行くが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまう。そのケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉三神である底筒男命、中筒男命、表筒男命が生まれた。これが日本神話による伝承である。
仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使や遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集めた。
王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれている。
【13位】浅間神社
浅間神社【せんげんじんじゃ】は、富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)、または浅間神を記紀神話に現れる木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメノミコト)とみてこれを祀る「浅間」を社名とする神社である。
全国に約1,300社の浅間信仰の神社があるが、これら浅間神社の多くは、富士山麓をはじめとしてその山容が眺められる地に所在する。
その中でも特に、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。
祭祀の特徴は、主要な浅間神社は山中に祀られた山宮と麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られることである。
これは、山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている。
また、主として関東地方にある多くの浅間神社の境内には富士塚が築かれ、氏子らで富士講が形成されたのも特徴的である。
浅間大神(木花之佐久夜毘売命)
浅間大神または浅間神は、木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメノミコト)である。
富士山本宮浅間大社【静岡県】
浅間大社(静岡県富士宮市)は、富士山の噴火を鎮めた御神徳により崇敬を集め、富士山信仰の広まりと共に全国に祀られた1300余の浅間神社の総本宮と称されるようになった。
主祭神は、木花之佐久夜毘売命(浅間大神;あさまのおおかみ)である。相殿神は、瓊々杵尊(ににぎのみこと)と大山祇神(おおやまづみのかみ)である。
木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となった神である。
木花之佐久夜毘売命は懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち出産した。そして、無事3人の皇子を産んだという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めている。
木花という御神名から桜が御神木とされている。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わう。
また申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれる。
「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとある。
第11代垂仁天皇はこれを憂い、紀元前27年に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められた。これが浅間大社の起源となっている。
その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられている。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となった。
また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは浅間大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっている。
【14位】金比羅神社
金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)は、御祭神として大物主神(=大国主神)を祀る神社で、全国各地に約1,900社が存在するという。金毘羅神社の総本社は、金刀比羅宮(香川県琴平町)である。
金刀比羅宮は、元々はその鎮座する象頭山の神を祀るものであったという。古くから象頭山は瀬戸内海を航行する船にとって目印とされてきた山でことから、象頭山の神は航海安全の神として信仰されるようになった。
また、航海安全だけでなく、祈雨の神として農民からも信仰されてきた。
金刀比羅宮【香川県】
金刀比羅宮(香川県琴平町)は、琴平山(別名「象頭山」)に鎮座する神社である。
御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇である。古から農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰されている。
また、石段1,368段目の山中には、金刀比羅本教の教祖である厳魂彦命をお祀りする厳魂神社(奥社)が鎮座する。
往古は「琴平神社」と称し、 大物主神のみを祀っていたが、本地垂迹説の影響を受け、「金毘羅大権現」と改称し、永万元年(1165年)に相殿に崇徳天皇を合祀した。
大物主神は、天照大御神の弟である建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の御子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で、農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様として全国の人々の厚い信仰を集めている。
神代の昔、琴平附近は海岸で、今の琴平の地は良い港であつた。当時、琴平山は瀬戸内海に浮かぶ島であり、そこに大物主神は行宮を造られた。その行宮跡に大物主神を奉斎したと伝えられている。
現在も、琴平山の鬱蒼とした樹林の各所には、往古の遺跡と思われる場所があり、境内のそこかしこで大物主神の偉業が偲ばれるという。
また、そのような謂れもあり、今もなお「海の神様」として広く親しまれている。
崇徳天皇(1119-1164年)は、第75代天皇(在位 1123-1141年)であった。保元の乱(1156)の後に讃岐国(現在の香川県)にて金毘羅大権現を崇敬し、境内の「古籠所」に参籠された。
また、その附近の「御所之尾」を行宮にされた、と伝えられている。讃岐国にて崩御された翌年の1165年、金毘羅大権現は象頭山(=琴平山)に神霊を迎えて、御本社相殿に「崇徳天皇」として奉斎した。
崇徳天皇の神霊を奉斎してからの金毘羅大権現の神威は、以前にも増して輝き渡ったという。
近世、「こんぴらさん」の神威は益々著しく、江戸時代中頃の桃園天皇の御代、宝暦3年(1753年)12月、金毘羅大権現を勅願所とすることが仰せ出され、1760年5月、日本一社の綸旨を賜わった。明治初年(1868年)に至るまで毎年春秋の2回、禁中より御撫物(おなでもの)が別当に下賜され、宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)を祈願していた。このように金毘羅大権現は歴朝の尊崇を受けた。
また、諸国の大名武将から一般庶民に至るまで広く信仰された。全国的な航路の発展とともに航海者の信心を集め、全国に勧請(かんじょう)されて金毘羅講が各地におこり、その神徳はさらに高まった。明治元年(1868年)、神仏混淆が廃止され、金毘羅大権現は元の琴平神社に復り、同年7月に宮号を仰せられて「金刀比羅宮」と改称し、現在に至っている。
門前町から御本宮までの785段の石段、 御本宮の金幣、「幸せの黄色いお守り」、書院(重要文化財)の円山応挙の障壁画などが有名である。
【15位】秋葉神社
秋葉神社【あきはじんじゃ】は、全国に1129社もあるという (歴史地理学者の米家泰作氏が2017年に調査)。
秋葉神社の御祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(秋葉三尺坊大権現)である。 そのため秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もある。
秋葉大権現信仰は、江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が明確なものは少ない。
祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠である場合が多い。祠は小さい場合が多く、町内に何箇所も設置されている場合もある。
秋葉大権現(火之迦具土大神)
御祭神の秋葉大権現は、火之迦具土大神【ヒノカグツチノオオミカミ】である。火之迦具土大神は、伊邪那岐【イナナギ】と伊邪那美【イナナミ】の御子で火の主宰神である。
古事記には、「神産み」の神話に下記の一説が収載されている。
イザナギとイザナミがさらに生んだのは、次の神々である。
- 鳥之石楠船神【トリノイハクスフネノカミ】
(別名を天鳥船【アメノトリフネ】という) - 大宜都比売神【オオゲツヒメカミ】
- 火之迦具土神【ヒノカグツチノカミ】(火の神)
イザナミは、この火の神を産んだことで女陰(女性器)に焼けどを負って倒れてしまった。この焼けどの苦しみから嘔吐して生まれたのが次の二柱である。
- 金山毘古神【カナヤマヒコノカミ】
- 金山毘売神【カナヤマヒメノカミ】
次に焼けどの苦しみから脱糞し、糞から生まれたのが次の二柱である。
- 波邇夜須毘古神【ハニヤスヒコノカミ】
- 波邇夜須毘売神【ハニヤスヒメノカミ】
次に焼けどの苦しみから失禁し、尿から生まれたのが次の二柱である。
- 弥都波能売神【ミズハノメノカミ】
- 和久産巣日神【ワクムスビノカミ】
イザナギは「愛する妻の命をただ一人の子供によって無くしてしまうなんて」と言い、イザナミの枕元や足元で這い廻り泣いた。
イザナミの遺体は出雲国と伯耆国【ほうきのくに】の境にある比婆山【ひばのやま】に葬られた。イザナミは黄泉国(死者の国)へと行ってしまったのである。
イザナギは、腰に挿していた十拳剣【とつかのつるぎ】を抜き、イザナミの死の原因となった火之迦具土神【ヒノカグツチノカミ】の首を切り落とした。
すると剣やそのツバや鞘についた血痕が沢山の神聖な岩に飛び散った。そしてそこから生まれたのが下記の神々である。
- 石拆神【イワサクノカミ】
- 根拆神【ネサクノカミ】
- 石筒之男神【イワツツノオノカミ】
- 甕速日神【ミカハヤヒノカミ】
- 樋速日神【ヒハヤヒノカミ】
- 建御雷之男神【タケミカヅチノオノカミ】
- 闇淤加美神【クラオカミノカミ】
- 闇御津羽神【クラミツハノカミ】
また、殺された火之迦具土神の体からも神々が生まれた。
- 正鹿山津見神【マサカヤマツミノカミ】(頭から)
- 淤縢山津見神【オドヤマツミノカミ】(胸から)
- 奥山津見神【オクヤマツミノカミ】(腹から)
- 闇山津見神【クラヤマツミノカミ】(陰部から)
- 志芸山津見神【シギヤマツミノカミ】(左手から)
- 羽山津見神【ハヤマツミノカミ】(右手から)
- 原山津見神【ハラヤマツミノカミ】(左足から)
- 戸山津見神【トヤマツミノカミ】(右足から)
秋葉山本宮秋葉神社【静岡県】
秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)は、東海随一の霊山として名高い秋葉山を神体山と仰ぎ、創建は和銅2(西暦709)年と伝えられている。
中世には「秋葉大権現」と称して、その御神徳は国中に知れわたり、朝廷からは正一位の神階を賜り、著名な武将からも数多くの名刀が寄進された。
江戸時代には全国に秋葉講が結成され、街道は参詣者で賑わった。今なお古式の祭儀がそのままに営まれ、全国津々浦々より崇敬されている。全国の秋葉神社の総本宮である。
御祭神は、火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオミカミ)である。伊邪那岐と伊邪那美の御子で火の主宰神である。
火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去る。光と熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められてきた。
御神徳は、火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展の霊験あらたかなるものとして、全国津々浦々から信仰されている。
御霊験は奈良朝以来、屡々顕れ、御神威は全国津々浦々に行きわたった。朝廷の信仰も篤く、正一位の宣旨を賜って、正一位秋葉神社と称したと伝わる。
【16位】阿蘇神社
阿蘇神社(熊本市)は、全国各地に約500社あるとされる阿蘇神社の総本社である。
社記によれば、阿蘇神社の御創立は孝霊天皇9年(紀元前282年)と伝えられ、約2,300年の歴史を有している。
阿蘇神社は、神武天皇の孫神で阿蘇を開拓した健磐龍命(タケイワタツミノミコト)はじめ家族神12神を祀っている。
古来、阿蘇山火口をご神体とする火山信仰と融合し、肥後国一の宮として崇敬をあつめてきた。
宮司職を世襲する阿蘇氏は、我が国でも有数の旧家として知られており、中世には武士化して肥後国を代表する豪族に成長した。
約500社に及ぶ分社があるのは、こうした歴史背景に理由があると考えられている。
「日本三大楼門」の一つに数えられる「楼門」は 九州最大の規模を誇っていた。
非常に残念なことに平成28年の熊本地震によってその楼門と拝殿が倒壊し、さらに社殿についても甚大な被害を受けた。
現在、復旧工事が進められており、復旧が完了する日が一日でも早く訪れることを願う。
あとがき
稲八金天神社【いなはちこんてんじんじゃ】の存在を知っている人は日本にどれ程いるだろうか? 少なくとも私は最近までその存在を知らなかった。
稲八金天神社は、明治時代後期に行われた神社合祀政策によって誕生した神社である。
その名称は最も多く合祀された稲荷神社、八幡宮、金刀比羅神社、天満宮のそれぞれの各頭文字を取って名付けられたものである。
特に「稲」字が筆頭であることから最も多く廃絶の憂き目を見たのが稲荷神社であったと推定される。
また日本各地に創設を見たが、その数は合祀政策が極端に断行された和歌山県に最も多かったという。瀧川政次郎氏によってその存在が報告されているが、現在では一社も存続していないようである。
和歌山県田辺市に住んでいた南方熊楠博士は、稲八金天神社について次のように痛烈に批判していたようである。
「合祀後の稲八金天大明権現王子と神様の合資会社で、混雑千万、俗臭紛々難有味少しもなし」、「合祀後の南無帰命稲荷祇園金毘羅大明権現というような、混雑錯操せる、大入りで半札をも出さにゃならぬようにぎっしりつまった俗神社」。そして、これら合祀政策を無識無学な官公吏と無義不道の神職による我利我欲を計った「神狩り」であると批判したとされる。(引用:ウィキペディア)
何が言いたいかというと、明治政府による神社合祀政策という愚策が施行されなかったら現在とは異なる状況になっていたかも知れないということである。
つまり、現在の状況が第1位が八幡神社であり、2位が稲荷神社、そして第3位が熊野神社であるが、この状況とは異なるものになっていたかも知れないということである。
だからどうなのと尋ねられれば、答えに窮する。そして現在の順位は事実であるから、それに異議を唱えるつもりは毛頭ない。しかし、この順位には明治政府の愚策が関与している可能性までは否定できない、と私は思っている。
【参考資料】
八幡総本宮 宇佐神宮【公式サイト】 |
太宰府天満宮 【公式サイト】 |
北野天満宮 【公式サイト】 |
伏見稲荷大社 【公式サイト】 |
諏訪大社【公式サイト】 |
熊野本宮大社【公式サイト】 |
熊野速玉大社【公式サイト】 |
熊野那智大社【公式サイト】 |
白山比咩神社【公式サイト】 |
春日大社【公式サイト】 |
愛宕神社【公式サイト】 |
秋葉山本宮秋葉神社【公式サイト】 |
住吉大社【公式サイト】 |
富士山本宮浅間大社【公式サイト】 |
阿蘇神社【公式サイト】 |
ウイキペディア (Wikipedia) |