はじめに
能楽、文楽、歌舞伎は日本の伝統芸能と呼ばれている。歌舞伎は、有名な歌舞伎俳優がテレビドラマや映画でもよく活躍していることから関心をもって観劇することもある。しかし、能楽と文楽に関しては、恥ずかしながら全くと言ってよいほど知識もなければ観劇したこともなかった。
ところが、偶然にも名張市の広報誌で2022年11月6日に観阿弥ふるさと公園(三重県名張市上小波田)で観阿弥祭が開催されることを知り、その観阿弥祭で狂言を観る機会があったのをきっかけに能楽に興味を抱いた。
能の大成者である観阿弥が初めて座を起こしたとされる地が現在の三重県名張市小波田地区である。現在、この地区には観阿弥が座を起こしたことを記念して能舞台が設置された観阿弥ふるさと公園がある。この能舞台で例年11月の第一日曜日に観阿弥祭が開催されている。
(観阿弥ふるさと公園)
コロナ禍で中止が続いていたらしいが、3年ぶりに開催された第53回目を迎えた2022年の観阿弥祭では名張子ども狂言の会(大蔵流)による狂言(「しびり」)や連吟(「宇治の晒」)と、地元の能楽愛好団体による謡曲【ようきょく】や仕舞【しまい】が披露された。
さらに今年の観阿弥祭は、名張能楽祭が同時開催されたことから大蔵流狂言師の茂山宗彦【しげやまもとひこ】氏と山下守之【やましたもりゆき】氏による狂言「清水【しみず】」を鑑賞することもできた。
狂言「清水」は、大蔵流では鬼狂言と呼ばれ、太郎冠者(シテ=主役)と主人との掛け合いが楽しい話である。話のあらすじは次のようなものである。
主人が太郎冠者を呼び出し、野中の清水でお茶の水を汲んでこいと命じるが、これが毎度の例になっては困ると思った太郎冠者は一計を案じ、主人から手渡された秘蔵の手桶を途中で投げ出し、鬼が出たと逃げて帰る。主人が大事な手桶を取りに出かけると、太郎冠者は清水へ先回りして、鬼の面を着けて主人を脅しつけて、太郎冠者のような召使いを大切にせよといろいろな注文をつける。先に戻って主人を出迎えた太郎冠者は、主人から鬼に親戚が居るかと尋ねられたりする。さらには鬼は何と言ったのかと尋ねられ、「いで食らおう」とうっかり鬼のまねをしてしまう。太郎冠者もすぐにその失敗に気付き、声色をかえて繕うとするが時すでに遅しといった状況である。太郎冠者の声が出会った鬼と同じであることに気づいた主人は、ふたたび清水へ出かけ、今度は太郎冠者の鬼の面をはぎ取って追い込んでいく。
主人に先回りするために家と清水との間を疾走する冠者の様子と苦しい言い訳が演じられており実に楽しい。この狂言の話は、かつて学校の何かの教科書で学んだ記憶があり、非常に懐かしい思いがした。
このように能楽に興味を抱いた私は、さらには文楽についても興味を抱いたので両者について学ぶことにした。
本稿は、そんな初心者が能楽と文楽のイロハのイの手前部分を一口かじった程度であるかも知れないが、私のように日本の伝統芸能である能楽や文楽に興味を持ち始めた方の参考にはなるはずである。何故なら素人目線で、何の予備知識もなくゼロからでも分かるように書いたつもりであるからだ。
能楽
能楽【のうがく】は、日本の伝統芸能であり、能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。
能と狂言の違い
私は、恥ずかしながら能と狂言の区別を明確に答えられなかった人間である。能楽【のうがく】という呼称もあるが、これは能と狂言とを包含する総称である。ということは能と狂言は、やはり近い存在ではあるが区別すべき違いがあるということである。
能は、謡(歌・台詞)と囃子(楽器)に合せて演じられる歌舞劇で、演者が能面をつけているのが特徴である。一方、狂言はセリフが中心の喜劇であり、能面をつけずに演じられるという。
囃子や能面というアイテムがあるか否かが、能と狂言を区別するのに役立つことが理解できた。
また、能に登場するのは人間だけでなく神や鬼、妖怪や幽霊などこの世のものではないものも登場し、演者は様式化された簡素な動きで感情を表し、物語が進むという。
一方、狂言は中世の庶民の日常生活を明るく描いた喜劇で、笑いを通して人間の普遍的なおかしさを描きだすものであるという。
能と狂言とでは、扱う題材も違うということも分かった。能と狂言の違いが分かったところで、本稿では能楽について、もっと調べてみることにする。
能楽の歴史
能楽の歴史は、大成前、大成期、戦国時代~安土桃山時代、江戸時代、そして近代に分けて能楽の変遷を追っていくと理解しやすいと思う。
大成前
能の源流を辿ると、遠く奈良時代まで遡るという。奈良時代に海を渡って大陸から入ってきた芸能の一つに、散楽【さんがく】という器楽・歌謡・舞踊・物真似・曲芸・奇術などバラエティーに富んだ娯楽的な見世物芸があったらしい。
時の朝廷は散楽戸【さんがくこ】を設けて、散楽者の養成を行ったという。こうして日本での散楽は官制上の保護を受けて演じられていたが、平安時代に入ると散楽戸が廃されてしまった。
散楽者であった役者たちは各地に分散して集団を作り、多くは大きな寺社の保護を受けて祭礼などで芸を演じたり、あるいは各地を巡演するなどしてその芸を続けたという。
この頃になると、散楽は日本風に猿楽(申楽)【さるがく、さるごう】と呼ばれるようになり、単なる物真似から世相をとらえて風刺する笑いの台詞劇として発達し、後の狂言へと発展していった。
一方、農村の民俗から発展した田楽、大寺の密教的行法から生まれた呪師芸などの芸もさかんに行われるようになり、互いに交流し、影響しあっていたという。
鎌倉中期頃には猿楽の集団は寺社公認のもとに「座」の体制を組んでおり、当時流行していた今様や白拍子などの歌舞的要素を取り入れて一種の楽劇【がくげき】を作り上げていた。
大成期
田楽や猿楽の諸座が芸を競う中にあって、室町時代になると、大和猿楽の名手として観阿弥が登場してくる。観阿弥は、将軍足利義満の支援を得て、物真似主体の強い芸風に、田楽や近江猿楽などの歌舞的要素をとり入れて芸術性に高めた。当時流行していたリズミカルな曲舞の節を旋律的な小歌節と融合させるなど音楽面での改革も行い、大いに発展を促した。
観阿弥ふるさと公園(三重県名張市上小波田)
この観阿弥の偉業を受け継いで、今日まで伝わる能の芸術性を確立したのが、観阿弥の息子の世阿弥である。世阿弥は12歳の少年の頃から将軍の寵愛を受け、その絶大な後援を得て、能を一層優美な舞台芸術に高めた。彼は父・観阿弥の志した幽玄を理想とする歌舞主体の芸能に磨き上げていった。
世阿弥は、夢幻能というスタイルを完全な形に練り上げ、主演者であるシテひとりを中心に据えた求心的演出を完成させて、多くの作品を残した。
また、世阿弥は能の道の理論的裏付けにも力を注ぎ、能楽美論・作能論・作曲論・歌唱論・演技論・演出論・修行論・「座」経営論など多方面にわたる著作を行い、能の完成に尽力した。
世阿弥の没後に、甥の音阿弥や、女婿の禅竹といった名手や理論家が輩出されたが、能自体は本質的には世阿弥が完成させた能の継承であり、能はこの時代からすでに伝統を守り育てる傾向を強めていたとされる。
戦国時代~安土桃山時代
応仁の乱以降の幕府の弱体化や寺社の衰退は、能に大きな打撃を与えた。音阿弥の子、信光や、その子長俊、禅竹の孫、禅鳳らは、華麗で劇的変化に富む曲を創作して、一般民衆の支持を集めて活路を見い出したが長続きせず、田楽も近江猿楽もほとんど消滅した。
16世紀後半の戦国時代には有名大名を頼って地方へ下る能役者が続出した。中でも、織田信長は、能に対して好意的だったことが知られており、豊臣秀吉はさらに熱狂的な愛好家であった。
豊臣秀吉は自身でも好んで能を舞ったほか、多くの「座」のうちから大和四座を選び、扶持を与えた。それ以来能役者は、社寺の手を離れて武家の支配を受けるようになった。
この時期、豪華絢爛な桃山文化の隆盛を背景に、豪壮な能舞台の様式が確立された。装束も一段と豪奢になったほか、能面作者にも名手が輩出して、現在でも使われている能面の型がほぼ出揃ったとされる。
演出や詞章についても整備が進み、狂言にも名手が続出したこの時代は、能楽の復興期であるとともに大きな転換期であったとされる。
江戸時代
豊臣秀吉の没後、徳川家康も能を保護した。大和四座に新たに喜多流が加わり、四座一流が幕府の式楽(儀式用の芸能)と定められた。この四座一流には大夫職が設けられ、能の中心は江戸に移って能役者の生活も安定したという。また、地方の有力諸藩も幕府にならって四座一流の弟子筋の役者を召し抱えた。
しかし、幕府や諸藩は能楽の保護者であると同時に厳しい監督官でもあったため、頻繁に出される厳しい通達や、「座」付の体制が整備されたことによって、能楽の自由な発展性は閉ざされた。
近代
明治維新によって保護者を失った能役者の多くは廃業、転業を余儀なくされ、ワキ方や囃子方、狂言方には断絶した流儀もある。
しかし、外国の芸術保護政策の影響を受けて、国家の伝統芸術の必要性を痛感した政府や皇室、華族、新興財閥の後援などによって、能楽は息を吹き返したと言われている。
第二次世界大戦後の混乱期にも、能楽は大きな打撃を受け存亡の危機にさらされたが、多くの人々の努力と支援に支えられて蘇った。今日では、日本を代表する古典芸能として、海外からも高い評価を受けている。
能楽の魅力
能楽をエンターテインメントとして捉えると私たちは能楽の本当の魅力を理解できないかも知れない。
一般にエンターテインメントと呼ばれるものは、観客に驚きや楽しみなど、大きな感情の揺れ動きを与えるものである。
それに対して、能楽はどのタイミングで拍手をすべきかどうかその是非が問われるほど心を落ち着けて観るものである。例えが適切ではないかもしれないが、私には神社仏閣に参拝する感覚に近いものがあった。
情報化社会に生きる私たち現代人には能楽のような心を鎮めて自分と向き合う場が必要かも知れない。能楽を観ていると、自分と向き合う時間が自然と生まれる。
解説書がなければ何を語っているのかよく理解できないせいもあるが、その分自分自身と向き合える時間を得ることができる。
解説書によって演目の内容を予習をしていれば、舞台が始まった時には物語の登場人物の立場になったとき、自分だったらどう考えて、どう行動するだろうかと自分の人生感で考える機会を得ることになる。善と悪とは何なのか。正義が対立する話ならさらに面白さが増大する。
本来の能楽は、りっぱな能楽堂ではなく、ありのままの環境に溶け込んだ芸能であったとされる。つまり能楽は屋外で上演されていたこともあって、自然の力による演出が得意な芸能であったとされる。決まったセットはなく、陽光やその場の風景などによって人間の五感を刺激していたらしい。
心を鎮めさせ、かつ、人間の五感を刺激する芸能が能楽であるような気がする。能楽堂の舞台は暗転しないので自分がその場で何を考えていても邪魔されることはなく集中できる。演者には申し訳ないが、上演中にいくつかアイデアが浮かんでくる。
演者の謡(台詞)や笛の音をボーっとして聞き、ときおり舞台を観ながら浮かんでくるアイデアをメモにとる。これはかなり贅沢な時間の過ごし方だと思う。
先述したとおり、能楽はエンターテインメントとは別次元の芸能である。いわゆる「面白い」の基準が違う。
一方で、興味深い芸能ということであれば「面白い」と感じる。
エンターテインメントの概念を外し、観客各人が自分自身にとっての楽しみ方を探るのが能楽の魅力の一つではないだろうか。
文楽
文楽【ぶんらく】は、人形浄瑠璃文楽のことである。1955年に人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる文楽が文化財保護法 に基づく重要無形文化財に指定された。
文楽と人形浄瑠璃
文楽と人形浄瑠璃には、厳密には違いがあるという。どちらも同じ人形浄瑠璃の伝統芸能である人形劇だと思っていたがそうではなかった。
「人形浄瑠璃」は、浄瑠璃の語り手である太夫、三味線、人形遣いの三人(=三業【さんごう】)によって成り立つ日本の伝統芸能の人形劇である。
一方、「文楽」は「人形浄瑠璃文楽」の略称であり元々は大阪で生まれた人形浄瑠璃の系譜に繋がるものを意味している。文楽は大阪を本拠地とする人形浄瑠璃の一種で、竹本義太夫【たけもとぎだゆう】が創始した人形浄瑠璃である。人形遣いの一人(=主遣い)が顔出しで人形を操っている点が「人形浄瑠璃」との違いを簡単に見分ける方法かも知れない。
文楽の歴史
文楽には人形浄瑠璃と呼ばれてきた歴史的背景がある。
浄瑠璃節と呼ばれる三味線の演奏に合わせて踊る語り部と称するものがある。琵琶法師が琵琶を奏でながら語ったとされる『平家物語』が有名であるが、当時それ以外で人気を博した物語が『浄瑠璃姫』であったらしい。
牛若丸が奥州へ行く途中の三河の国で浄瑠璃姫と恋におち、その後瀕死の状態だった時、浄瑠璃姫の信仰で助けられたという物語らしいが、この作品は平家物語とは違うものとして、人々に受け入れられ、そしてたちまち人気の演目となっていったと伝わる。そのため、『浄瑠璃姫』以降の語り物の音楽は浄瑠璃節といわれるようになったとされる。
浄瑠璃が始まったのは1480年頃であり、浄瑠璃節に人形操作が加わり人形浄瑠璃となっていったのは江戸時代初期と伝えられている。
人形浄瑠璃を有名にしたのは、竹本義太夫(1651~1714)という人で、彼が語ったとされる近松門左衛門の『世継曽我』で人気に火がつき、新作の『出世景清』も評判がよかったらしい。江戸幕府の締め付けがゆるやかになった頃で、庶民の娯楽として発展していったという。
一方、芸風の違う豊竹座もあり、大阪の竹本座と豊竹座の二つが一世を風靡したが、やがて資金難で座を閉じることになったらしい。そこに救世主のように現れたのが、植村文楽軒である。そして、文楽軒の後を継いだ大蔵は、様々な名手を呼び寄せて興行を行った。この文楽軒と大蔵の二人の活躍により、一時衰退していた人形浄瑠璃が勢いを取り戻したとされる。このことから人形浄瑠璃を「文楽」と呼ぶようになったという。
その後も紆余曲折があったが、昭和38年(1963年)に財団法人文楽協会が設立され、今日に至っている。
文楽の特色として、人形とその操作、太夫、三味線があるが、それぞれの発展にも歴史がある。
人形の歴史
人形のルーツは阿波(現徳島県)にあるという。人形浄瑠璃で使用される人形のほとんどが徳島に関係する人形師の作品であると言われている。現在でも「阿波人形浄瑠璃」は阿波十郎兵衛屋敷で毎日上演されているということだ。
木偶【でこ】(木彫りの操り人形)は、茶箱に入れられて四国一円は勿論のこと、全国津々浦々まで回っていったとされる。
一方、人形操作の起源は傀儡子【かいらいし】と呼ばれる人形まわしだったらしい。それ以前の人形は宗教的な行事に使われていただけであるが、時代の推移とともに宗教的な意味合いは薄れて娯楽性のある芸能となっていったとされる。
人形浄瑠璃においての人形操作は、一人遣いから三人遣いへと進化していった。
1734年には人形の口が開き、目が開閉できるようになり、やがて1736年には目が動き、眉も動くようになったとされる。
文楽発祥の大阪で最初に使われていた人形は、40~50cmと小さなものであったが、現在でも使われている人形は130~150cmと大きくなったことで人形の魅力はさらに増していった。
人形の頭【かしら】は、檜や桐材で作られており、頭は胴とつながっていない。演目ごとに頭にどの胴を付けるかを考え、着物(衣装)を着付け、髪も結う。
配役が決まると人形遣いが人形の胴に衣装を縫い付けるらしい。
人形操作の三人遣いは、主遣いと呼ばれる人が頭と右手を担当し、左遣いが左手を担当、そして足遣いが足を担当する。
この三人の息の合った人形操作は、とても三人で行っているとは思えないほどみごとであるが、三人はいつも同じとは限らないという。どんな演目でも誰とでも組めることがその芸の確かさを示しているとされる。
太夫
語りを行うのが太夫と呼ばれる人である。見台【けんだい】と呼ばれる上に床本【ゆかほん】を置いて語りをする。
人形浄瑠璃作家として江戸時代に活躍した近松門左衛門は、武士出身で、次男坊として苦労しながら人形浄瑠璃作家として名を馳せた。近松自身が経験したようなことから作られた床本は、人間の機微や世間知を巧みに描写し、庶民の心を掴んでいったと伝わる。
三味線
三味線は、沖縄の三弦【さんしん】の蛇皮線を改良してできたもので、この三味線によって浄瑠璃節は音楽として大きく変わり、人々の心により響くものとなったという。
三味線はその音で場面の状況を表現する。例えば、切羽詰まった状況ではあえて音をなくして叩きつけるようにバチを使い、その場を表現する。
文楽の魅力
実は、私は大学生の頃に一度だけ観劇の機会を得たが、未熟だった私には文楽の魅力を見出すことはできなかった。今にして思えば残念なことである。
太夫、三味線、人形が三位一体となってくり広げられる華やかで優美な世界は文楽以外にはないとされる。
驚くべきことに太夫と三味線弾きは、客席の方に視線を向け、舞台の方を向いていないという。この三位一体の芸能は、まさに奇跡的なものだとされている。
それぞれの力量が合わさってはじめて、一つの場(状況)を創りあげ、その連続性で物語が仕上がっていく。
人形の細やかな仕草は、これが人形だとは思えないほどの美しさと人間の機微を表現しているとされる。
人形遣いのみならず、太夫との息の合った掛け合いをする三味線も素晴らしいに違いない。
ベテランの太夫の力のこもった一時間を超える語り、一人で何役もこなせるその声、そこにはいい意味での緊張感が存在する。
そしてその場を表す言葉の数々は他では味わうことのない感動を観客に与えているらしい。人間の機微や喜び、悲しみを訴えかけて観客を慰め、明日への活力を与えている点も評価されている。
文楽は物語としては時代物を扱い、日本の芸能の一つとして脈々とその伝統を守りつつ、芸のクオリティを維持している。毎日の精進たるはすごいものがあると推察する。
文楽の本質を「情」であるという。文楽は、日本人の心だけでなく海外の人々の心に響きかけるものがあり、それが海外でも評価される理由である。今後もこの伝統芸能が続いていくことを願いたい。
あとがき
観阿弥ふるさと公園(三重県名張市上小波田)で開催されていた観阿弥祭で狂言を観る機会があったのをきっかけに能楽に興味を抱き、さらには同じ伝統芸能である文楽にも興味を持った。
能楽と文楽は、ともに伝統芸能と言われる歌舞伎とは異なる趣がある。能楽と文楽は、歌舞伎よりも長い歴史があり、芸能であるものの共にいわゆるエンターテインメントとは一線を画するような厳かな雰囲気を醸し出している。
情報化社会に生きる私たちは能楽や文楽に触れる機会を得ることで、心を鎮めて自分と向き合う機会を容易に得られるようになるのかも知れない。自分と向き合う時間を持つことはシニアだけに必要なものではなく、全世代の現代人に必要なことである。
人によって好みが分かれるかも知れないが、エンターテインメントの概念を外し、観客各人が自分自身にとっての楽しみ方を探してみるのもシニアのみならず現代人の娯楽ではないだろうか。