はじめに
日本書紀では大国主神は「大己貴命」として表記されている。古事記とは対照的に大国主神からの視点による伝承はほとんどないのも特徴的である。
古事記では有名な「因幡の白兎」や「根の国への訪問」など大国主神を主人公とする話は全く記載されていない。つまり出雲神話なるものがすっかり日本書紀では割愛されてしまっている。
日本書紀は征服者側である大和政権の視点で編纂された史書であることが古事記と読み比べるとより強いことがよく分かる。歴史は勝者に都合よく書かれるのが常であるから日本書紀もそのことを念頭においた上で読むのが正しい読み方だと思う。
そうは言うものの神代の神々の物語は単純に読み物としても実に愉快であることには変わりがない。肩の力を抜いて純粋に楽しもうと思う。
<目次> はじめに 大国主神 大国主神の国つくり バディの少彦名命はコビトだった! 三諸山の大三輪神 葦原中国の平定(国譲り) 古事記とは異なる話:きっかけは孫の溺愛からか? 天穂日命は復命せず! 天稚彦も復命せず! 天稚彦、死す! 武甕槌神と経津主神の登場! 大国主神との国譲り交渉 武甕槌神と経津主神の復命 天孫降臨 あとがき |
大国主神
伝承によれば、大国主神【オオクニヌシノカミ】には多くの名がある。例えば、主なものだけでも下記のような名が知られている。
- 大物主神【オオモノヌシノカミ】
- 大己貴命【オオアナムチノミコト】
- 葦原醜男【アシワラノシコオ】
- 八千戈神【ヤチホコノカミ】
- 大国玉神【オオクニタマノカミ】
- 顕国玉神【ウツシクニタマノカミ】
そして皆で百八十一柱の御子がいるとされる。
大国主神の国つくり
バディの少彦名命はコビトだった!
大己貴命【オオアナムチノミコト】(=大国主神)と少彦名命【スクナヒコナノミコト】は協働して天下を造った。また現世の人民と家畜のために、病気治療の方法を定めた。鳥獣や昆虫の災いを除くための方法も定めた。このため百姓【おおみたから】は今日に至るまで、その恵みを受けているという。
大国主神が少彦名命に「我らが造った国は善く出来たと言えるだろうか」と問うた。すると少彦名命は「よく出来た所もあるが、不出来の所もある」と答えた。
その後、少彦名命が出雲の熊野の岬に行って、ついに常世【とこよ】(長生不老の国)に去った。一説に、粟島【あわしま】に行き、 粟茎【あわがら】によじ登り、それに弾かれて常世郷【とこよのくに】に行ったともいう。
別の伝承では、大国主神が国を平定したときに、出雲国の五十狭々【いささ】の小浜【おばま】(=稲佐の浜)に行き、食事をしようとしたとき、海上ににわかに人の声がしたので、驚いて探してみたが、さっぱり見えない。
しばらくして一人の小人が、ヤマカガミの皮で舟をつくり、ミソサザイの羽を衣にして、湖水にゆられてやってきた。
大国主神はこの小人を拾って掌にのせ、もてあそんでいると、跳ねてその頰をつついた。
そこでそのかたちを怪しんで遣いを出して天津神に尋ねた。すると高皇産霊尊【タカミムスヒノミコト】がその話を聞いて「私が生んだ子は皆で千五百程もある。それら子の中の一人にいたずらで私の教えに従わない子がいた。指の間から漏れ落ちたのは、きっと彼だろう。可愛がって育ててくれ」と言ったという。これが少彦名命である。
三諸山の大三輪神
少彦名命が去ってしまった後は、大国主神が一人でよく国中を巡り、国の中でまだ出来上がっていなかった所を造った。そして、ついに出雲の国で揚言【ことあげ】(=言葉に出して言い立てる、古来日本では好まれない行為)をした。
「葦原中国【あしはらのなかつくに】は、元は荒れていて広い所だった。岩や草木に至るまで、すべて強かった。しかし、私がそれらを砕き伏せ、今は従わない者はない」と言った。
さらに「今、この国を治める者はただ私一人である。私と共に天下を治めることができる者が他にいるだろうか」と言った。
そのとき、不思議な光が海を照らして、忽然【こつぜん】として浮かんでくるものがあった。「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を平げることができたろうか。私がいたからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ」という声が聞こえた。
大国主神はその声の主に「お前は何者か」と尋ねた。すると、声の主は「私はお前に幸いをもたらす、不思議な魂【みたま】(=幸魂【さきみたま】・奇魂【くしみたま】)だ」と答えた。
大国主神は「そうですか。分りました。あなたは私の幸魂奇魂です。今、どこに住みたいと思われますか」と尋ねた。すると声の主は「私は日本国の三諸山【みもろやま】に住みたいと思う」と答えたという。
そこで宮を三諸山に造って、住まわせた。これが大三輪神【オオミワノカミ】である。
葦原中国の平定(国譲り)
古事記とは異なる話:きっかけは孫の溺愛からか?
天照大神(アマテラス)の子である、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊【マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト】は、高皇産霊尊【タカミムスヒノミコト】の娘の栲幡千千姫【タクハタチチヒメ】を娶とり、生まれた子が天津彦彦火瓊瓊杵尊【アマツヒコヒコホノニニギ】(ニニギ)である。
皇祖である高皇産霊尊は、特にニニギを可愛がり大事に育てた。
そして、孫であるニニギを立てて、葦原中国の君主としたいと思った。
しかし葦原中国には、蛍火のように輝く神や、蠅のように騒がしくて良くない神がいたという。また、草木も皆よく物をいうらしい。
天穂日命は復命せず!
そこで高皇産霊尊は、多くの神々を集めて「私は葦原中国の良くない者を平定しようと思うが、それには誰を遣わしたらよいだろう。諸々の神たちよ、遠慮せず何でも言ってくれ」と問うた。
皆は「天穂日命【アマノホヒノミコト】は大変優れた神です。試してみてはどうでしょう」と答えた。そこで、皆の言葉に従って、天穂日命を派遣してみた。
しかし天穂日命は、大国主神におもねって、三年たっても復命しなかったという。
天穂日命【アマノホヒノミコト】は、アマテラスとスサノオが「誓約」した際に生まれた男神で、アマテラスの子供となった神である。太子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊【マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト】とは兄弟。よって、天孫ニニギの叔父にあたる神である。 |
このため、天穂日命の子である大背飯三熊之大人【オオソビノミミクマノウシ】(別名、武三熊之大人【タケミクマノウシ】を遣わした。しかし、彼もまた父の天穂日命におもねり、なにも報告してこなかったという。
天稚彦も復命せず!
そこで高皇産霊尊は、さらに諸神を集めて、次に遣わすべき者を尋ねた。すると皆の者は「天国玉神【アマツクニタマノカミ】の子の天稚彦【アメワカヒコ】は立派な若者です。試してみてはどうでしょう」と言った。
そこで高皇産霊尊は、天稚彦に天鹿児弓【あまのかごゆみ】と天羽羽矢【あまのははや】を授けて、葦原中国に遣わされた。
しかし、天稚彦も忠実でなかった。
天稚彦は、葦原中国に到着すると、大国主神の娘の下照姫【シタテルヒメ】を妻に娶って、地上に留まり「私も葦原中国を治めようと思う」と言ったまま、ついに復命しなかった。
高皇産霊尊は、使者たちが長く知らせてこないのを怪しんで、無名雉【ナナシキギシ】を遣わして様子を探った。無名雉は飛び降りて、天稚彦の家の門の前に立つ神聖な桂の木の梢【こずえ】に止まった。そのとき、天探女【アマノサグメ】が無名雉を見つけて、天稚彦に「珍しい鳥が来て、桂の梢に止まっています」と報告した。
天稚彦は、高皇産霊尊に貰った天鹿児弓と天羽羽矢をとり、無名雉を射殺した。その矢は無名雉の胸を通り抜け、高皇産霊尊の元まで届いた。高皇産霊尊はその矢を見て「この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢である。血が矢についている。きっと国津神と闘ったのだろう」と言って、矢を取り返して投げ降ろした。
別の伝承(第一)では、天照大神(アマテラス)が天稚彦【アメワカヒコ】に「豊葦原中国は、我が子が王たるべき国である。けれども強暴な悪い神たちがいる。だからまず、お前が行って平定せよ」と命じた。
アマテラスは、天稚彦に天鹿児弓【あまのかごゆみ】と天真鹿児矢【あまのかごや】を授けて豊葦原中国に派遣した。
しかし、天稚彦は天降って、国津神の娘をたくさん娶とり、八年たっても全く復命しなかった。
そこで、アマテラスは思兼神【オモイカネノカミ】を召して、その帰らない事情を問うた。思兼神は思い考え「雉子【キギシ】を遣わして問わせるのが良いでしよう」と答えた。
思兼神の考えに従って、雉子を遣わして見に行かせた。雉子が飛び下って、天稚彦の家の門前の桂の木の梢に止まり、「天稚彦、なぜ八年もの間、復命しないのか」と問うた。このとき、天探女【アマノサグメ】という国津神がおり、その雉子を見て「鳴き声の悪い鳥が、この木の梢にいます。射殺してしまいましょう」と進言した。
天稚彦はアマテラスから授かった天鹿児弓と天真鹿児矢を手に取って雉子を射た。矢は雉子の胸を通して、天上のアマテラスのところまで届いた。アマテラスはその矢を見て「これは昔、私が天稚彦に与えた矢である。今どうしてここまで飛んできたのだろう」と言い、その矢を取り上げ「もし悪い心をもって射たのなら、天稚彦はきっと災難にあうだろう。もし清い心をもって射たのなら無事だろう」と呪いの言葉をかけた。そして矢を地上へ返し投げた。
天稚彦、死す!
高皇産霊尊が高天原から投げ降ろした矢は地上へ落ち下って、天稚彦の胸に当った。天稚彦は新嘗祭【にいなめさい】の行事の後で、仰臥【ぎょうが】していたところだったため、矢に当たるや、立ちどころに死んでしまった。
天稚彦の妻の下照姫は、嘆き悲しんでその声が天まで届いた。このとき、天稚彦の父の天国玉神は、その泣き声を聞いて、天稚彦が死んだことを悟り、疾風【はやて】を送って屍【しかばね】を天に上げ送らせた。そこで喪屋【もや】を造り、殯【もがり】の式(=葬式)をした。
天稚彦が葦原中国にいたとき、味耜高彦根神【アジスキタカヒコネノカミ】とは仲がよかった。それで味耜高彦根神は、天に上って弔問した。味耜高彦根神の顔と姿が、天稚彦の生前の有様によく似ていたので、天稚彦の親族妻子は皆、「我が君は、まだ死んでいなかった」と衣の端を捉えて喜び泣いた。
これに対して、味耜高彦根神は憤然として怒り、「朋友の道としてお弔いすべきだから、穢れるのも厭わず遠くからお悔みにやってきた。それなのに、私を死人と間違えるとは」と言って腰に差していた大きな刀を抜いて、喪屋を切り倒した。
これが下界に落ちて山となった。現在、美濃国の藍見川の川上にある喪山がそれである。
世の中の人が、生きている人を、死んだ人と間違えるのを忌むのはこれが由来となっている。
別の伝承(第一)では、アマテラスが地上へ投げ返した矢は落ち下って、 天稚彦の寝ている胸に当たり、天稚彦はたちどころに死んでしまった。
それで、天稚彦の妻子が天から降りてきて、柩【ひつぎ】を持って上っていき、天上に喪屋【もや】を作って殯【もがり】の式(=葬式)をして泣いた。
天稚彦と味耜高彦根神【アジスキタカヒコネノカミ】は以前から仲が良かった。それで味耜高彦根神は、天に上って喪を弔って大声で泣いた。時に、味耜高彦根神の容貌は、天稚彦と大変よく似ていた。それで天稚彦の妻子たちはこれを見て喜び「我が君は死ないでまだ生きておられた」と言った。そして、衣帯によじかかって放すこともしなかった。
味耜高彦根神は怒って「友達は死んだのだ。だから私は弔いに来たのだ。それなのに私をどうして死人と間違えるのだ」といって十握剣を抜いて、喪屋を切り倒した。
その小屋が下界に落ちて山となった。これが美濃国の喪山【もやま】である。
世の人々が、死んだ人と自分とが間違えられるのを忌むのは、これがその由来となっている。
武甕槌神と経津主神の登場!
その後、高皇産霊尊は、また諸神を集めて葦原中国に遣わすべき者を選んだ。皆が、「磐裂根裂神【イワサクネサクノカミ】の子で、磐筒男【イワツツノオ】と磐筒女【イワツツノメ】が生んだ、経津主神【フツヌシノカミ】が良いでしょう」と言った。
そのとき、天石屋【あまのいわや】に住む稜威雄走神【イツノオハシリノカミ】の曾孫子の武甕槌神【タケミカツチノカミ】が進み出て「どうして経津主神だけが良くて、自分はダメなのだ」
と言った。その語気が大変激しかったので、経津主神に添えて、武甕槌神を共に葦原中国に派遣した。
別の伝承(第一)では、アマテラスは、太子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊【マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコト】に葦原中国にいくよう命じた。
ところが太子は天浮橋【あまのうきはし】に立ち、地上を見下し、「あの国はまだ平定されていない。使えない、気の進まぬ安定していない国のようだ」と言い、再び帰り上って、降臨しない理由を詳しく述べた。
このためアマテラスは、武甕槌神【タケミカツチノカミ】と経津主神【フツヌシノカミ】を遣わして、先行して葦原中国を平定するよう命じた。
大国主神との国譲り交渉
武甕槌神と経津主神は、出雲の国の五十田狭【いたき】の小汀【おはま】(=稲佐の浜)に降り立ち、十握剣を抜いて、逆さに大地に突き立てた。そして、剣の先に膝を立てて座り、大国主神に「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。そこで、我ら二人を平定に遣わされた。 お前の心はどうか、お譲りするか、否か」と尋ねた。すると大国主神は「私の子どもに相談してから、返事をいたしましょう」と答えた。
このとき、大国主神の子である事代主神【コトシロヌシノカミ】は、出雲の美保の崎【みほのさき】(=美保関)にいて、釣りを楽しんでいた。一説では、鳥を射ちに行っていたともいう。
そこで、熊野の諸手船【もろたぶね】に、使者として稲背脛【いなせはぎ】(諾否を問う係)を乗せて向かわせた。そして、高皇産霊尊の言葉を事代主神に伝え、その返事を問うた。
そのとき、事代主神は使者に対し「今回の天津神の言葉には、父上は抵抗しない方が良いでしよう。私も仰せに逆う ことは致しません」と言った。そして、波の上に幾重もの青柴垣【あおふがき】をつくり、船の側板を踏んで、 海中に退去してしまった。使者は急ぎ帰って、これを報告した。
大国主神は、我が子の言葉を武甕槌神と経津主神に告げ「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言った。
そこで国を平定したときに用いられた広矛を、武甕槌神と経津主神に献上し、「私はこの矛をもって、事を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私は幽界【ゆうかい】(死後の世界のこと)に参ります」と言い、言い終ると共に隠れてしまった。
別の伝承(第一)では、武甕槌神と経津主神が出雲に降り立ち、大国主神に「お前はこの国を天津神に奉る気はあるのか、ないのか」と問うた。
大国主神は「我が子の事代主【コトシロヌシ】が、鳥を射ちに三津の崎【みつのさき】に行っています。今すぐ尋ねて返事をいたしましょう」と答えた。
そこで使いを送って尋ねたところ、事代主は「天津神の望まれるのを、どうして奉らないことがありましょうか」と答えた。
それで大国主神は、事代主の言葉をもって、武甕槌神と経津主神に返答した。
別の伝承(第二)では、天津神が派遣した武甕槌神と経津主神は、出雲の五十田狭の小汀【いたさのおばま】(=稲佐の浜)に降り立ち、大国主神に「お前はこの国を天津神に奉るかどうか」
と問うた。
大国主神は「あなた方二神の言われることはどうも怪しい。私が元から居るところへやって来たのではないか。簡単に許すことは出来ぬ」と答えた。経津主神は天上に帰って始終を報告した。
高皇産霊尊は二柱の神を再び遣わし、大国主神に勅して、「今、お前の言うことを聞くと、深く理に叶っている。それで詳しく条件を揃えて申しましょう」と言って、下記の交渉条件を並べた。
- 大国主神が行なってきた現世の政治は天孫が引き継ぐ
- 大国主神は幽界の神事を受け持つ
- 大国主神が住むべき宮居【みやい】を今から造る
- その宮居は、千尋もある栲【たえ】の縄でゆわえて、しっかりと結んで造る
- その宮居を造る柱は高く太く、床板は広く厚くする
- 大国主神のために供田を作る
- 大国主神が往来して海で遊べるよう、高い橋や水上に浮いた橋を架け、鳥のように速く馳ける船を造る
- 大国主神のために天安河にかけ外しのできる橋を造る
- 大国主神のために幾重もの革を縫い合わせた白楯を作る
- 大国主神の祭祀は天穂日命【アマノホヒノミコト】が掌る
これらの好条件に対して大国主神は「天津神のおっしゃることは、こんなにも行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。私が治めるこの世のことは、天孫がまさに治められるべきです。私は退いて、幽界の神事を担当しましょう」と答えた。
大国主神は、岐神【ふなとのかみ】(=猿田彦神)を武甕槌神と経津主神に勧めて、「この神が私に代ってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します」と言い、体に八坂瓊【やさかに】の大きな玉をつけて、永久に姿を消した。
武甕槌神と経津主神の復命
武甕槌神と経津主神は、諸々の従わない神たちを成敗、あるいは、邪神や草木、石に至るまで皆平げた。
服従しないのは、星の神である香香背男【カカセオ】だけとなった。そこで建葉槌命【タケハツチノミコト】を遣わして屈服させた。
そして、武甕槌神と経津主神は天に上って復命した。
別の伝承(第一)では、武甕槌神と経津主神は天に上って復命し、「葦原中国は皆すでに平定しました」と報告した。
別の伝承(第二)では、経津主神は岐神を先導役として、方々を巡り歩き、葦原中国を平定した。従わない者があると斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。
この時に帰順した首長は、大物主神【オオモノヌシノカミ】(=大国主神)と事代主神【コトシロヌシノカミ】である。
そこで八十万神【やそのかみ】を天高市【あまのたけち】に集めて、この神々を率いて天に上り、その誠の心を披歴された。
時に、高皇産霊尊が大物主神に「お前がもし国津神を妻とするなら、 私はお前がまだ心を許していないと考える。そこで、これから我が娘の三穂津姫【ミホツヒメ】を、お前の妻として娶らせたい。八十万の神たちを引き連れて、永く皇孫のために守って欲しい」と言って、無事に帰還させたという。
三穂津姫命【ミホツヒメノミコト】はこの伝承どおり、大国主神の妻となったようだ。三穂津姫命は、美保神社(島根県松江市美保関町美保関608)で事代主神と共に祀られている。高天原から稲穂を持って降臨し、人々に食糧として配り広められた神として「五穀豊穣、夫婦和合、安産、子孫繁栄、歌舞音曲(音楽)」の守護神として信仰されている。美保の地名はこの神の名に縁があるという。 |
天孫降臨
葦原中国の平定(国譲り)の後、高皇産霊尊は、真床追衾【まとこおうふすま】(玉座を覆う襖)で、ニニギを包んで降臨させた。ニニギは天の磐座【あまのいわくら】を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道を踏み分けて進み、日向の襲【ひむかのそ】の高千穂の峯【たかちほのみね】に降臨した。
ニニギは歩み出し、槵日の二上【くしひのふたかみ】の天の梯子【あまのはしご】から、 浮島の平な所に立った。そして、瘦せた不毛の地を丘続きに歩き、良い国を求めて、吾田国【あたくた】(南九州・阿多地域)の長屋の笠狭崎【かささのみさき】に着いた。
そこには人がいて、自らを事勝国勝長狭【コトカツクニカツナガキ】と名乗った。ニニギが「ここに国はあるか」と問うと、事勝国勝長狭は「国はあります。お気に召しましたら、どうぞごゆるりと」と答えた。それでニニギはそこに宮殿を建て、留まることにした。
別の伝承(第一)では、武甕槌神と経津主神から「葦原中国は皆すでに平定しました」との報告を受けたアマテラスは、「もしそうなら、すぐ我が子を降らせよう」と言った。ところが、太子を降臨させようしたちょうどそのときに天孫が生まれた。その名を天津彦彦火瓊瓊杵尊【アマツヒコヒコホニニギノミコト】(ニニギ)という。
時に奏上する者がいて、「この天孫を代りに降らせられませ」と言う。それでアマテラスは、ニニギに八坂瓊曲玉【やさかにのまがたま】、八咫鏡【やたのかがみ】および草薙剣【くさなぎのつるぎ】の三種の神器を授けて、降臨するよう命じた。
そして、アマテラスはニニギに「葦原の千五百秋【ちいほあき】の瑞穂【みずほ】の国は、我が子孫が王たるべき国である。天孫のあなたが行って治めなさい。さあ、行きなさい。宝祚【あまつひつぎ】の栄えることは、天地と共に窮りないであろう」と言葉をかけた。
別の伝承(第四)では、高皇産霊尊が、真床覆衾【まとこおうふすま】をニニギに着せ、天八重雲【あまのやえぐも】を押し分けるようにして地上に降臨させた。ニニギは、日向の槵日【くしひ】の高千穂峯【たかちほのみね】に降臨した。
そして、膂宍【そしし】の胸副国【むなそうくに】(痩せた土地の国)を丘続きに歩いて、浮渚在平地【うきじまりたいら】に立ち、国主である事勝国勝長狭【コトカツクニカツナガサ】を召喚し「ここに国があるだろうか」と問うと、事勝国勝長狭は「ここに国があります。勅【みことのり】のままにどうぞ御自由に」と答えた。
一説によると、事勝国勝神はイザナギの子で、またの名を塩土老翁【シオツツノオジ】という。
あとがき
大国主神は、日本書紀では大己貴神【オオアナムチノカミ】と表記されることがほとんどである。
また古事記に記載されていた「因幡の白兎」や「根の国への訪問」などの大国主神に関係する神話(出雲神話)は記載されていない。
「葦原中国の平定」(=国譲り)の長い話に比べて大国主神の国つくりの話は実にシンプルで短い。明らかに割愛されている。
大和政権よりの史書である日本書紀では、出雲神話は意図的に割愛された可能性が高い。これも記紀を読み比べる際の楽しみと言えるかも知れない。
一方で、大国主神を助けて国つくりをした少彦名命【スクナヒコナノミコト】は、実は「一寸法師」のようなコビト姿の神であったとの記載もあって愉快である。
古事記では「国譲り」と表記されていたものが、日本書紀では「葦原中国の平定」という記載になっていることからも日本書紀は大和政権による史書の色彩がより強いと言える。
「葦原中国の平定」に至る話は非常に多岐にわたる伝承を記載していて、古事記とは対照的で興味深い。
何より大国主神が造った国の征服を考えた首謀者(?)が天照大神ではなく、ニニギの祖父である高皇産霊尊【タカミムスヒノミコト】であるということも古事記とは異なる説(伝承)も収載されていて愉快だ。
国譲りの代償として大国主神への優遇処置も提示されていたりして、国造りに多大な貢献をした大国主神への配慮も示されており、大和政権が出雲政権に対してアメとムチで接していたことが窺えて面白い。
事代主神がほとんど抵抗せずに「国譲り」に同意していることから大和政権側の戦闘能力が圧倒的であった可能性が読み取れる。無駄な血を流さないように「無血開城」的な交渉の道を選んだのかも知れない。
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